百萬遍知恩寺御影堂・百萬遍知恩寺見どころ(修学旅行・観光)

百萬遍知恩寺御影堂

●百萬遍知恩寺御影堂は2017年(平成29年)2月23日に国の重要文化財に指定されました。
●百萬遍知恩寺御影堂は江戸時代前期の1662年(寛文2年)に第39世・光譽萬霊上人が建立したが、94年後の江戸時代中期の1756年(宝暦6年)に第48世・震譽知巖上人が現在の御影堂を再建しました。大殿(御影堂)中心に宮殿(くうでん)を置く須弥壇(しゅみだん)は1662年(寛文2年)に建立された御影堂のものが転用されていると言われています。また知恩院の御影堂は百萬遍知恩寺の御影堂の設計図を拡大して再建されたと言われ、その造りが非常に酷似しています。御影堂は室町時代中期の1523年(大永3年)に刻まれた法然上人坐像が安置されています。法然上人坐像は寄木造りで、内部に法然上人の遺骨と第2世・源智上人が書かいた包紙に納められた遺骨と遺髪が納められています。
一般的に御影堂は寺院の開基(かいき)・開山(かいさん)や宗祖の像を安置した堂塔です。御影堂は奈良時代頃から開山の没後に敬慕の心を込めて建立されるようになりました。御影堂は祖師堂(そしどう)・開山堂などとも言われています。
法然上人は平安時代後期の1133年(長承2年)4月7日に美作国(岡山県)久米南条稲岡荘の押領使・漆間時国と秦氏君清刀自の子として生まれたと言われています。1141年(保延7年)に父・漆間時国が殺害され、母方の叔父で、僧侶・観覚のもとで剃髪し、1145年(天養2年)に比叡山延暦寺に登って源光に師事して天台を学びました。しかし1150年(久安6年)に教学などに疑問を感じ、西塔黒谷・叡空のもとで修業し、法然房源空と称しました。その後20年間に渡って修学し、中国浄土教の僧・善導の「観無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうしょ)」や天台宗の僧である恵心僧都・源信の「往生要集(おうじょうようしゅう)」により、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」の名号を口に出して称える称名念仏(しょうみょうねんぶつ)に専修する悟りに達し、浄土宗を開教しました。京都吉水に草庵を結んで老若貴賤に布教したが、女官の出家を契機に南都北嶺(興福寺・比叡山延暦寺)から迫害を受け、1207年(承元元年)に讃岐に配流され、その後赦免されて京都に戻りました。なお法然上人は1212年(建暦2年)に東山大谷で亡くなりました。
●百萬遍知恩寺御影堂は桁行七間・梁間七間で、入母屋造(いりもやづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。御影堂は正面・背面が向拝(こうはい)三間です。なお御影堂は内陣と外陣の間に蔀戸(しとみど)がついていたが、現在は取り外されています。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
向拝は寺院・神社建築で仏堂・社殿の屋根の中央が前方に張り出した部分です。向拝は仏堂・社殿の入口に階段上に設けられることから階隠(はしかくし)とも言われています。
百萬遍知恩寺

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