豊国神社唐門・豊国神社見どころ(修学旅行・観光)

豊国神社唐門

●豊国神社唐門は1897年(明治30年)12月28日に国の重要文化財、1953年(昭和28年)3月31日に国宝に指定されました。
●豊国神社唐門は桃山時代(1573年~1614年)に建立されました。唐門は明治維新後に豊国神社が再興された際、南禅寺(なんぜんじ)の塔頭(たっちゅう)・金地院(こんちいん)から移されました。ちなみに唐門は元々伏見城(ふしみじょう)に建てられ、その後二条城(にじょうじょう)に移され、江戸時代前期の1627年(寛永4年)に「黒衣の宰相」とも言われた以心崇伝(いしんすうでん・金地院崇伝(こんちいんすうでん))が江戸幕府から譲り受け、二条城から金地院に移したとも言われています。
金地院は室町時代前期の応永年間(1394年~1427年)に室町幕府4代将軍・足利義持(あしかがよしもち)が南禅寺68世・大業徳基(だいごうとくき)を開山として洛北鷹ケ峯(たかがみね)に創建したのが起源と言われています。その後荒廃し、江戸時代初期の1605年(慶長10年)に江戸幕府の参与で、「黒衣の宰相」と言われた南禅寺270世である金地院崇伝・以心崇伝が南禅寺山内の現在の場所に移しました。
伏見城は1592年(文禄元年)に豊臣秀次に関白職を譲った豊臣秀吉が平安時代から観月の名所であった伏見指月に隠居所として隠居屋敷を建設したのが始まりです。1593年(文禄2年)に豊臣秀頼が誕生し、大坂城を秀頼に譲る為に隠居屋敷の大規模な改修が始まり、1594年(文禄3年)に城下町の整備も行われました。しかし1596年(慶長元年)の慶長伏見地震で建物が倒壊しました。その後北約500メートルにある木幡山に場所を移して築城が再開され、1597年(慶長2年)5月に天守閣が完成し、秀吉が移ってきたが、1598年(慶長3年)8月18日に秀吉が伏見城で亡くなりました。1600年(慶長5年)に関ヶ原の戦いが起こり、1601年(慶長6年)3月に江戸幕府初代将軍・徳川家康が伏見城に入城し、二条城の築城と伏見城の再建に着手しました。1619年(元和5年)から一国一城令によって廃城が決定し、1625年(寛永2年)に破却が完了しました。
●豊国神社唐門は四脚門(よつあしもん)で、前後唐破風(からはふ)・側面入母屋造(いりもやづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)です。
四脚門は2本の本柱の前後に2本の控柱を建てた合計4本の柱がある門です。四脚門は寺院の正門に用いられることが多い格式の高い門とされています。四脚門は普通切妻造だが、江戸時代以降に入母屋造の四脚門も造られました。
唐破風は弓形のように中央部を丸みをつけ、両端が反りかえった曲線状に造形した破風です。軒唐破風は屋根本体の軒先を丸みを帯びた造形した破風です。向唐破風は屋根本体とは別に出窓のように造形した破風です。なお破風は切妻造(きりづまづくり)・入母屋造(いりもやづくり)の屋根の妻の三角形の部分です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。
檜皮葺は屋根葺手法の一形式です。檜皮葺では檜(ひのき)の樹皮を用いて屋根を葺きます。檜皮葺は日本以外では見られない日本古来の手法です。檜皮葺は飛鳥時代の668年(天智天皇7年)に滋賀県大津市の廃寺・崇福寺(すうふくじ)の諸堂が檜皮で葺かれた記録が最古の記録です。
豊国神社

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