養源院客殿・養源院見所(修学旅行・観光)

養源院客殿

●養源院客殿は1897年(明治30年)12月28日に国の重要文化財に指定されました。
●養源院客殿は江戸時代前期の1621年(元和7年)に建立されました。養源院では1616年(元和2年)に江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)の正室・崇源院(すうげんいん・江(ごう))が姉で、養源院開基・淀殿(よどどの)とその子・豊臣秀頼(とよとみひでより)の菩提を弔ったが、1619年(元和5年)の火災で焼失し、1621年(元和7年)に崇源院の願によって再興され、関白・豊臣秀吉が築城した伏見城の建物が移されて再建されたと言われています。牡丹の間は豊臣秀吉の学問所、客殿左右と正面の廊下の天井は血天井とも言われています。客殿には俵屋宗達が描いたと言われる襖絵「金地着色松図(きんじちゃくしょくまつず)」と杉戸絵「表獅子裏波に麒麟図(おもてししうらなみにきりんず)・表獅子裏白象図(おもてししうらはくぞうず)」、左甚五郎が造ったと言われる鶯張の廊下(うぐいすばりのろうか)もあります。なお客殿は内陣の仏壇に本尊・阿弥陀如来(あみだにょらい)、浅井長政(あざいながまさ)・歴代将軍の位牌が祀られています。
伏見城は安土桃山時代の1592年(文禄元年)に豊臣秀次に関白職を譲った豊臣秀吉が平安時代から観月の名所であった伏見指月に隠居所として隠居屋敷を建設したのが始まりです。1593年(文禄2年)に三男で、庶子・豊臣秀頼が誕生し、大坂城を秀頼に譲る為に隠居屋敷の大規模な改修が始まり、1594年(文禄3年)に城下町の整備も行われました。しかし1596年(慶長元年)の慶長伏見地震で建物が倒壊しました。その後北約500メートルにある木幡山に場所を移して伏見城の築城が再開され、1597年(慶長2年)5月に天守閣が完成し、秀吉が移ってきたが、1598年(慶長3年)8月18日に秀吉が伏見城で亡くなりました。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの前哨戦とも言われる伏見城の戦いでは徳川氏の家臣・鳥居元忠らが籠城し、伏見城を死守して最後に自刃し、その血の痕が残る廊下が養源院などの血天井になったとも言われています。ただ伏見城の多くの建物は炎上し、伏見城は落城したと言われています。1601年(慶長6年)3月に江戸幕府初代将軍・徳川家康が伏見城に入城し、二条城の築城と伏見城の再建に着手しました。1619年(元和5年)から一国一城令によって廃城が決定し、1625年(寛永2年)に破却が完了しました。天守は二条城、多くの建物は福山城・淀城に移されたと言われています。なお伏見城では1623年(元和9年)7月27日に江戸幕府3代将軍・徳川家光の将軍宣下が行われています。
●養源院客殿は桁行約22.8メートル・梁間約18.9メートルで、入母屋造(いりもやづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。客殿は西面に奥玄関、北面に奏者所(そうしゃどころ)が付属しています。奥玄関は軒唐破風(のきからはふ)付きで、入母屋造の本瓦葺です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
唐破風は弓形のように中央部を丸みをつけ、両端が反りかえった曲線状に造形した破風です。軒唐破風は屋根本体の軒先を丸みを帯びた造形した破風です。向唐破風は屋根本体とは別に出窓のように造形した破風です。なお破風は切妻造(きりづまづくり)・入母屋造(いりもやづくり)の屋根の妻の三角形の部分です。
養源院

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