金閣寺大書院・金閣寺見どころ(修学旅行)

●金閣寺大書院は江戸時代中期の貞享年間(1684年~1687年)に建立されたと言われています。1958年(昭和33年)に方丈とともに修理が完了しました。
一般的に書院は禅宗寺院で、住持(じゅうじ(住持職・住職))の私室のことです。住持(住持職・住職)は寺院を管掌する最高位の僧侶のことです。室町時代以降に武家・公家の邸の居間兼書斎も書院と言うようになりました。なお書院は中国で書庫・書斎を意味し、日本で鎌倉時代に書見(しょけん)したり、学を講ずる場所を意味するようになり、その後客を応接する対面所を言うようになった。
●金閣寺大書院にはかつて1759年(宝暦9年)に完成した伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)の襖絵(重要文化財)が飾られていました。伊藤若冲の襖絵は現在、承天閣美術館(じょうてんかくびじゅつかん)に移されています。なお金閣寺大書院には現在、日本画家・加藤東一(かとうとういち)が描いた「淡墨桜図」・「大杉図」・「日輪図」・「月輪図」・「鵜之図」・「臥竜梅図」・「千鳥図」・「若竹図」などが飾られています。
伊藤若冲の襖絵には一之間(葡萄之間)の「紙本墨画葡萄図(しほんぼくがぶどうず)」15面・二之間(松鶴之間)の「紙本墨画松鶴図(しほんぼくがしょうかくず)」8面・三之間(芭蕉之間)の「紙本墨画芭蕉図(しほんぼくがばしょうず)」12面・四之間の「紙本墨画鶏及秋海棠図(しほんぼくがにわとりおよびしゅうかいどうず)」11面・狭屋之間の「紙本墨画竹図(しほんぼくがたけず)」4面がります。
伊藤若冲は江戸時代中期の1716年(享保元年)3月1日に京都錦小路(にしきこうじ)の青物問屋・桝源(ますげん)の長男として生まれました。1738年(元文3年)の父・源左衛門没後に4代目当主になったが、1755年(宝暦5年)に3歳下の弟・白歳(宗巌)に家督を譲り、40歳から絵師としての活動を本格的に始めます。伊藤若冲は商売に熱心でなく、家業を放棄して2年間丹波の山奥に隠棲しました。また芸事もせず、酒も嗜まず、妻も娶りませんでした。1758年(宝暦8年)頃から動植綵絵を描き始め、翌1759年(宝暦9年)に金閣寺大書院の襖絵を制作しました。1788年(天明8年)の天明の大火で自宅を焼失し、1791年(寛政3年)頃から京都市伏見区深草の石峰寺(せきほうじ)門前に草庵・斗米庵(とべいあん)を結んで義妹(末弟・宗寂の妻)・心寂(真寂尼)と住みました。伊藤若冲は長沢芦雪(ながさわろせつ)とともに「奇想派」・「奇想の絵師」と言われました。若冲の号は禅の師である相国寺(しょうこくじ)第113世・大典顕常(だいてんけんじょう)または黄檗宗の僧で、煎茶の中興の祖・月海元照(げっかいげんしょう・売茶翁(ばいさおう))から与えられたとも言われています。「若冲」は「老子(45章)」の「大盈若沖(たいえいじゃくちゅう)」に由来し、「大いに充実しているものは、空っぽのようにみえる」という意味があります。なお伊藤若冲は1800年(寛政12年)10月27日に亡くなりました。
承天閣美術館は臨済宗相国寺派の大本山・相国寺(しょうこくじ)境内に建設された美術館です。承天閣美術館は相国寺創建600年記念事業の一環として、1984年(昭和59年)4月に開館しました。なお承天閣美術館の名称は相国寺の正式名称である万年山相国承天禅寺(まんねんざんしょうこくじょうてんぜんじ・萬年山相國承天禅寺)に由来しています。
金閣寺見どころ

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