清水寺乾山記念碑・清水寺見どころ(修学旅行)

清水寺乾山記念碑

●清水寺乾山記念碑は奥の院(重要文化財)から音羽の滝に向かう途中に建立されています。乾山記念碑は1920年(大正9年)に洛陶会が尾形乾山(おがたけんざん)の作陶を記念して建立しました。乾山記念碑は高さ約175センチ・幅約90センチ・奥行約38センチで、臨済宗(りんざいしゅう)建仁寺派(けんにんじは)管長・竹田黙雷(たけだもくらい)禅師筆による「乾山記念碑」が刻まれています。
尾形乾山は江戸時代前期の1663年(寛文3年)に京都の呉服商である雁金屋(かりがねや)・尾形宗謙(おがたそうけん)の三男・権平(ごんぺい)として生まれました。ちなみに6歳年上の次男は兄・尾形光琳(おがたこうりん)です。父・尾形宗謙の遺言により、3つの屋敷・書籍・諸道具などの遺産を兄・尾形光琳と折半し、兄・尾形光琳は放蕩に費やしたが、尾形乾山は隠遁(いんとん)を好み、書物を愛して地味な生活を送っていました。江戸時代中期の1689年(元禄2年)に仁和寺(にんなじ)門前に居を構えて習静堂(しゅうせいどう) と号し、学問・禅などに励み、同じ仁和寺門前で御室窯(おむろがま)を開いていた野々村仁清(ののむらにんせい)から本格的に製陶を学んだと言われています。尾形乾山は陶芸家・本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)の孫で、陶芸家・本阿弥光甫(ほんあみこうほ)や陶芸家・楽一入(らくいちにゅう)から作陶の手ほどきを受けていたとも言われています。1699年(元禄12年)に2代目・野々村仁清から正式に陶法を伝授され、二条家から拝領した鳴滝泉谷に居を移して尚古斎(しょうこさい)と号し、仁和寺から許可を受けて乾山窯を開きました。鳴滝泉谷は京都の西北・乾(いぬい)の方角に位置するところから「乾山」の銘を作品に記しました。1712年(正徳2年)に京都市内の二条丁子屋町に居を移して経済的に苦しい製陶生活を20年近く続け、1731年(享保16年)に江戸に移って入谷に窯を開き、1737年(元文2年)に下野国佐野に移り、その作品は「佐野乾山」と言われました。その後江戸に戻り、1743年(寛保3年)7月22日に亡くなりました。なお尾形乾山は兄・尾形光琳との合作も多く、尾形乾山は器を作り、兄・尾形光琳が絵を描きました。
奥の院は江戸時代前期の1633年(寛永10年)に再建されました。奥の院はかつて清水寺開基である延鎮上人(えんちんしょうにん)・賢心(けんしん)と行叡居士(ぎょうえいこじ)の草庵跡とも言われています。奥の院は千手観音(せんじゅかんのん)・毘沙門天(びしゃもんてん)・地蔵菩薩(じぞうぼさつ)などを安置しています。奥の院は桁行五間・梁間五間の懸造(かけづくり)で、寄棟造(よせむねづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)です。
音羽の滝は標高約242メートルの音羽山(おとわやま)の山中から湧き出ています。音羽の滝は778年(宝亀9年)の清水寺創建から一度も涸れたことがなく、1年中ほぼ一定量の水が湧き続けています。音羽の滝の水はかつて菩薩さまの功徳水・心身を清める黄金水・長寿の延命水とも言われました。音羽の滝は高さ約4メートルの3本の筧(かけい)から流れ落ち、学問成就・恋愛成就・延命長寿のご利益があると言われています。音羽の滝は3本の筧から1本を選び、一口だけ飲みます。
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