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峰定寺本堂・峰定寺見所(修学旅行・観光)
峰定寺本堂
●峰定寺本堂は1904年(明治37年)2月18日に国の重要文化財に指定されました。
●峰定寺本堂は室町時代前期の貞和年間(1345年~1349年)頃に仁王門(重要文化財)とともに再建されたと言われています。峰定寺は「大悲山峰定寺縁起(だいひざんぶじょうじえんぎ)」によると平安時代後期の1154年(久寿元年)に観空西念(三滝上人)が鳥羽上皇(第74代・鳥羽天皇)の勅願によって創建し、かつての本堂の建立には信西(しんぜい・藤原通憲(ふじわらのみちのり))や平清盛(たいらのきよもり)があたっと言われています。本堂は清水寺の本堂(清水の舞台)と同じ断崖に迫り出した懸造(かけづくり)・舞台造(ぶたいづくり)で、日本最古の懸造・舞台造による建築物と言われています。また清水寺の本堂(清水の舞台)は江戸時代前期の1633年(寛永10年)に江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)の寄進によって再建された際、峰定寺の本堂を参考にしたとも言われています。なお本堂は本尊として鳥羽上皇の念持仏である十一面千手観音(じゅういちめんせんじゅかんのん)坐像(重要文化財)、脇侍として不動明王二童子(ふどうみょうおうにどうじ)像(重要文化財)・毘沙門天(びしゃもんてん)像(重要文化財)を安置しています。
第74代・鳥羽天皇は1103年(康和5年)に第73代・堀河天皇と藤原苡子の第1皇子として生まれました。生後間もなく母・藤原苡子が亡くなったことから祖父・白河法皇(第72代・白河天皇)のもとで育てられ、生後7ヶ月で立太子され、 1107年(嘉承2年)に父が崩御すると5歳で即位しました。幼く、病弱だったことから祖父が院政を執りました。1117年(永久5年)に祖父の養女・藤原璋子が入内し、翌年に藤原璋子が中宮になりました。1123年(保安4年)に第1皇子・顕仁親王(第75代・崇徳天皇)に譲位し、1129年(大治4年)に祖父が崩御すると院政を敷きました。祖父の側近を排除し、中宮に代わり、1133年(長承2年)頃から藤原得子を寵愛し、1141年(永治元年)に崇徳天皇に譲位させ 、得子との第9皇子・体仁親王(第76代・近衛天皇)を即位させました。1142年(康治元年)に東大寺の戒壇院で受戒して法皇になり、1155年(久寿2年)に近衛天皇が崩御すると中宮との第4皇子・雅仁親王(第77代・後白河天皇)を即位させました。崇徳上皇の意に反して後白河天皇を即させたことから保元の乱の原因になったと言われています。鳥羽天皇は仏教を篤く信仰し、最勝寺・六勝寺などを創建したり、熊野に詣でたりしました。なお第74代・鳥羽天皇は1156年(保元元年)に崩御しました。
●峰定寺本堂は桁行五間・梁間五間で、寄棟造(よせむねづくり)のこけら葺(こけらぶき)です。
懸造は崖などの高低差が大きい場所に仏堂などを建立する建築様式です。懸造は平安時代中期には既に行われていたとも言われています。観音霊場では岩を観音菩薩(かんのんぼさつ)の降臨する霊場・補陀落山(ふだらくせん)に見立てていたとも言われています。
寄棟造は四方向に傾斜する屋根面を持つ屋根の形式です。寄棟造は大棟(おおむね)の両端から四方に隅棟(すみむね)が降り、2つの台形と2つの二等辺三角形で構成されます。いずれも奈良県の東大寺の大仏殿や正倉院(しょうそういん)・唐招提寺(とうしょうだいじ)の金堂が代表例です。
こけら葺は木材の薄板を使って屋根を葺く方法です。こけら葺は板葺(いたぶき)の一種です。板葺では板厚が2~3ミリの場合にこけら葺、板厚が4~7ミリの場合に木賊葺(とくさぶき)、板厚が1~3センチの場合に栩葺(とちぶき)と言われています。板葺にはヒノキ・サワラ・スギ・エノキ・トクサ・クヌギなどが用いられます。板葺は古墳時代から屋根に用いられるようになったとも言われ、茅葺(かやぶき)に次いで古いとも言われています。
峰定寺