平等院浄土院庭園・平等院見どころ(修学旅行)

平等院浄土院庭園

●平等院浄土院庭園は京都府の名勝に指定されています。
●平等院浄土院庭園は平庭枯山水です。浄土院庭園は細川藤孝(ほそかわふじたか・細川幽斎(ほそかわゆうさい))の長男、細川ガラシアの夫で、大名・茶人である細川忠興(ほそかわただおき・細川三斎(ほそかわさんさい))が作庭したと言われています。浄土院庭園には十字架の形をしている織部灯篭が置かれています。
枯山水は池や遣水(やりみず)などの水を用いず、地形や石・砂礫(されき)などで山水の風景を表現する庭園様式です。枯山水は水がない庭で、石で滝、白砂で水などを表現する石組みを主体とし、植物が用いられてもごく僅かです。枯山水は中国の庭園や中国の宋(そう)・明(みん)の山水画(破墨山水(はぼくさんすい))などの影響を受け、南北朝時代(1336年~1392年)から室町時代(1336年~1573年)に禅宗寺院を中心に発達しました。禅宗寺院では方丈前庭などに多く作庭されました。枯山水は最初実景の写実的な模写が多かったが、次第に象徴化・抽象化が進み、石の配列による空間構成の美が重視されるようになった。枯山水は仮山水(かさんすい)・故山水(ふるさんすい)・乾泉水(あらせんすい)・涸山水(かれさんすい)などとも言われています。
細川忠興(細川三斎)は戦国時代の1563年(永禄6年)11月28日に室町幕府第13代将軍・足利義輝(あしかがよしてる)に仕える細川藤孝(ほそかわふじたか・細川幽斎(ほそかわゆうさい))と正室・沼田麝香(ぬまたじゃこう)の長男として京都で生まれました。1565年(永禄8年)の永禄の変(えいろくのへん)で足利義輝が殺害され、その後父・細川藤孝が織田信長(おだのぶなが)に仕え、細川忠興は織田信長の嫡男・織田信忠(おだのぶただ)に仕えました。1578年(天正6年)に元服し、織田信忠から1字を与えられ、細川忠興と名乗るようになりました。また同年に織田信長の仲介により、明智光秀(あけちみつひで)の娘・玉子(細川ガラシア)と勝竜寺城で結婚しました。1579年(天正7年)に織田信長の命により、父・細川藤孝や義父・明智光秀とともに丹後国守護・一色義道(いっしきよしみち)を滅ぼし、1580年(天正8年)に父・細川藤孝が丹後国南半国の領主になりました。1582年(天正10年)に義父・明智光秀による本能寺の変が起こると父・細川藤孝とともに喪に服して剃髪し、妻・細川ガラシアを丹後国味土野に幽閉しました。その後関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)に仕え、1588年(天正16年)に豊臣姓を下賜されました。1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が亡くなると江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)に接近し、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで東軍として戦いました。妻・細川ガラシアは人質として大坂城に入ることを拒否して自刃しました。その後丹後国12万石から豊前国中津33万9千石に転封され、中津城から小倉城に藩庁を移し、小倉藩初代藩主になりました。1620年(元和6年)に病気の為に三男・細川忠利(ほそかわただとし)に家督を譲って隠居し、出家して三斎宗立と名乗りました。細川忠興は利休七哲のに数えられ、茶道三斎流の開祖です。なお細川忠興は1646年(正保2年)1月18日に亡くなりました。
一般的に灯籠(燈籠)は灯火を灯す器具です。灯籠は神社で神前の御灯(みあかし)や献灯に用いられます。ま社頭の装飾などにも用いられることもあります。灯籠は原型が中国大陸から朝鮮半島を経て、仏教とともに伝来したと言われています。ちなみに当麻寺(たいまでら)の石灯籠(重要文化財)は白鳳時代(645年(大化元年)~710年(和銅3年))に造られ、日本最古の石灯籠とも言われています。灯籠は宝珠・笠・火袋・中台・竿・基礎などから構成され、火袋に灯火が灯されます。灯籠にはその形から春日・雪見・岬・織部・遠州・道成寺・キリシタンなどの種類があります。なお灯籠には木灯籠・陶灯籠・金灯籠・石灯籠などがあります。
平等院見どころ

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