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大仙院本堂・大仙院見所(修学旅行・観光)
大仙院本堂(方丈)
●大仙院本堂(方丈)は1916年(大正5年)5月24日に国の重要文化財、1957年(昭和32年)6月18日に国宝に指定されました。
●大仙院本堂(方丈)は棟札(むねふだ)によると戦国時代(室町時代後期)の1513年(永正10年)に大徳寺76世・古嶽宗亘が自分の隠居所として建立したと言われています。本堂(方丈)は古い方丈建築が多い大徳寺山内で最古の方丈で、国内でも東福寺の塔頭(たちゅう)・龍吟庵(りょうぎんあん)の方丈(国宝)に次いで古い方丈と言われています。明治時代以降に屋根が桟瓦葺(さんがわらぶき)・銅板葺(どうばんぶき)に変更されたが、昭和30年代に解体修理が行われ、その際に桟瓦葺の下地から檜皮葺(ひわだぶき)が見付かり、2009年(平成21年)の創建500年を機に檜皮葺に戻されました。檜皮葺は火災に弱いことから放水銃3基と45立方メートルの貯水槽も整備されました。
古嶽宗亘(古岳宗亘)は室町時代中期の1465年(寛正6年)に近江国(滋賀県)に六角(ろっかく)氏の一族として生まれました。8歳で近江・岩間寺(いわまでら・正法寺(しょうほうじ))に入って義済(ぎさい)に師事し、11歳で京都・建仁寺(けんにんじ)に移って喜足(きそく)に参じ、17歳で受戒しました。その後大徳寺40世住持・春浦宗煕(しゅんぽそうき)に参じ、1505年(永正2年)に大徳寺56世住持・実伝宗真(じつでんそうしん)の印可(いんか)を得て、その法を継いで大徳寺76世住持になり、その後大仙院を創建しました。また1526年(大永6年)に大阪堺の堺南荘を南宗庵と名付け、その後南宗寺(なんしゅうじ)になりました。古嶽宗亘は第104代・後柏原天皇(ごかしわばらてんのう)、第105代・後奈良天皇(ごならてんのう)の帰依(きえ)され、1521年(永正18年・大永元年)に第104代・後柏原天皇から仏心正統禅師、1536年(天文5年)に第105代・後奈良天皇から正法大聖国師を賜りました。古嶽宗亘は大仙院を本院(本庵)とする北派を形成し、龍源院(りょうげんいん)を本院とする南派ともに大徳寺主流になりました。古嶽宗亘は詩文に優れ、墨蹟を広めました。なお古嶽宗亘は戦国時代(室町時代後期)の1548年(天文17年)6月24日に亡くなりました。
●大仙院本堂(方丈)は桁行約14.8メートル・梁間約10.8メートルで、入母屋造(いりもやづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。
檜皮葺は屋根葺手法の一形式です。檜皮葺では檜(ひのき)の樹皮を用いて屋根を葺きます。檜皮葺は日本以外では見られない日本古来の手法です。檜皮葺は飛鳥時代の668年(天智天皇7年)に滋賀県大津市の廃寺・崇福寺(すうふくじ)の諸堂が檜皮で葺かれた記録が最古の記録です。
大仙院