永観堂悲田梅・三鈷の松・永観堂見所(修学旅行・観光)

永観堂悲田梅・三鈷の松

●永観堂悲田梅・三鈷の松は永観堂七不思議に数えられています。
永観堂七不思議には抜け雀・悲田梅・臥龍廊・三鈷の松・木魚蛙・火除けの阿弥陀・岩垣もみじなどがあります。
●永観堂悲田梅は方丈(釈迦堂)前に植えられています。悲田梅は永観律師(えいかんりっし)が境内に薬王寺(悲田院)という施療院(せりょういん)を置き、梅の期を育て、梅の実を病人や貧しい者に分け与えたことに由来しています。
永観律師は平安時代中期の1033年(長元6年)に官僚育成機関である大学寮(だいがくりょう)で紀伝道(きでんどう)を教授する文章博士(もんじょうのはかせ)・源国経(みなもとのくにつね)の子として生まれたが、その後石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)別当(べっとう)・元命の養子になりました。11歳で永観堂の深観(じんかん)に師事して受戒し、奈良・東大寺(とうだいじ)東南院の有慶(ゆうきょう)・顕真(けんしん)に師事して三論教学(さんろんきょうがく)を学び、法相教学(ほっそうきょうがく)・華厳教学(けごんしきょうがく)も修めました。その後浄土教(じょうどきょう)に帰依して一万遍の念仏を日課とし、1062年(康平5年)に30歳で京都・光明寺(こうみょうじ)に隠棲しました。1072年(延久4年)に浄土教を布教する為に永観堂に戻り、人々に念仏を勧め、境内に薬王院を設けて病人救済などの社会事業も行いました。1099年(康和元年)に権律師(ごんりっし)に任じられたが、翌日に辞任しました。翌1100年(康和2年)に奈良・東大寺別当に任じられ、一旦辞退したが、再び任じられました。東大寺境内の正倉院(しょうそういん)や東大寺の七重塔・食堂・回廊などを修理し、東大寺の再興に努め「能治(のうじ)の永観」と称されました。1102年(康和4年)に永観堂に戻り、1104年(長治元年)に東大寺別当の辞任が認められました。その後往生講(おうじょうこう)や迎講(むかえこう)を修したり、社会事業を行ったり、「往生講式(おうじょうこうしき)」・「往生拾因(おうじょうじゅういん)」などを記したりしました。永観律師は浄土教の布教に努め、「浄土宗八祖」に数えられています。なお永観律師は1111年(天永2年)12月4日に亡くなりました。
●永観堂三鈷の松は御影堂横に植えられています。三鈷の松は松葉が三本あり、先が三つ叉になった法具の一種である三鈷杵(さんこしょ)に例えられています。三鈷の松は真心・智慧・慈悲の3つの福を授かるとも、財布に入れておくとお金が貯まるとも言われています。三鈷の松は中国原産の白皮松(しろかわまつ)で、松葉の長さが30センチ近くにもなるそうです。
三鈷杵は密教法具である金剛杵(こんごうし)の一種です。金剛杵には密教で外道悪魔(げどうあくま)を破砕し、煩悩(ぼんのう)を打ち破る仏の智慧(ちえ)を象徴しているとも言われています。金剛杵は中央の握りが細く、両端が尖っています。両端の形状により、独鈷杵(とっこしょ)・三鈷杵(さんこしょ)・五鈷杵(ごこしょ)・七鈷杵(ななこしょ)・九鈷杵(きゅうこしょ)・宝珠杵(ほうじゅしょ)・宝塔杵(ほうとうしょ)などがあります。ちなみに三鈷杵は両端がフォークのように三本に分かれています。なお金剛杵は奈良時代から平安時代に中国から伝わったと言われています。
【永観堂 備考】
*参考・・・京都・永観堂(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ
●永観堂の歴史(創建から現在)を紹介しています。
永観堂歴史(真紹・永観律師)
●永観堂の見どころ(阿弥陀堂・方丈など)を紹介しています。
永観堂見どころ(阿弥陀堂・方丈など)

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