- Home
- 玉林院本堂・玉林院見所(修学旅行・観光)
玉林院本堂・玉林院見所(修学旅行・観光)
玉林院本堂
●玉林院本堂は1985年(昭和60年)5月18日に国の重要文化財に指定されました。
●玉林院本堂は江戸時代前期の1621年(元和7年)に再建されたと言われています。玉林院は1603年(慶長8年)に皇室の典医(てんい)や豊臣・徳川の待医(じい)を勤めた曲直瀬正琳(まなせしょうりん)が曲直瀬家初代・曲直瀬道三(まなせどうさん)を菩提を弔う為、大徳寺142世・月岑宗印(げっしんそういん)を開山として創建したが、1609年(慶長14年)の火災で焼失し、片桐且元(かたぎりかつもと)らが本堂を再建したとも言われています。本堂には狩野探幽(かのうたんゆう)ら狩野派の絵師が描いた70面の水墨画が飾られています。
片桐且元は戦国時代(室町時代後期)の1556年(弘治2年)に浅井長政(あざいながまさ)の家臣・片桐直貞(かたぎりなおさだ)の長男として生まれました。初め浅井長政に仕えたとも言われ、その後関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)に仕え、1583年(天正11年)に豊臣秀吉と柴田勝家(しばたかついえ)が戦った賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)で戦功を挙げ、福島正則(ふくしままさのり)・加藤清正(かとうきよまさ)らとともに賤ヶ岳の七本槍(しちほんやり)に数えられ、1万石の大名になりました。1584年(天正12年)の小牧長久手の戦い(こまきながくてのたたかい)に従軍し、1586年(天正14年)に豊臣姓を与えられ、方広寺(ほうこうじ)大仏殿の作事奉行(さくじぶぎょう)を務めました、1587年(天正15年)の九州平定(きゅうしゅうへいてい)・1590年(天正18年)の小田原征伐(おだわらせいばつ)・1592年(天正20年)からの文禄の役(ぶんろくのえきなど)にも従軍しました。1598年(慶長3年)に豊臣秀吉の子・豊臣秀頼(とよとみひでより)の傅役(もりやく・後見役)になりました。1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が亡くなり、1600年(慶長5年)の関ケ原の戦い(せきがはらのたたかい)の際に徳川家康(とくがわいえやす)に豊臣秀頼が関係ないことを説き、豊臣家に尽力しました。1601年(慶長6年)に徳川家康から1万8千石加増されて大和竜田藩(たつたはん)藩主になり、徳川家康の信任を背景に徳川家康と豊臣家の交渉担当役になり、江戸幕府の吏僚(りりょう)としても活動しました。1614年(慶長19年)に方広寺鐘銘事件(しょうめいじけん)が起こると豊臣家の使者として徳川家康がいる駿府に赴いたが、豊臣秀吉の側室で、豊臣秀頼の生母・淀君(よどぎみ)らから疑惑を掛けられ、大坂城を退いて弟・片桐貞隆(かたぎりさだたか)の摂津茨木城(いばらきじょう)に入り、その後1614年(慶長19年)からの大坂の陣(おおさかのじん)に従軍し、大坂城落城の際に豊臣秀吉・淀君の助命を徳川家康に懇願したが、受け入れられませんでした。片桐且元は大坂の陣後に4万石に加増されたが、豊臣家滅亡から20日後、1615年(元和元年)6月24日に京屋敷で亡くなりました。
●玉林院本堂は桁行約23.1メートル・梁間約15.0メートルで、入母屋造(いりもやづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
檜皮葺は屋根葺手法の一形式です。檜皮葺では檜(ひのき)の樹皮を用いて屋根を葺きます。檜皮葺は日本以外では見られない日本古来の手法です。檜皮葺は飛鳥時代の668年(天智天皇7年)に滋賀県大津市の廃寺・崇福寺(すうふくじ)の諸堂が檜皮で葺かれた記録が最古の記録です。
玉林院