石清水八幡宮本殿・石清水八幡宮見所(修学旅行・観光)

石清水八幡宮本殿

●石清水八幡宮本殿は1897年(明治30年)12月28日に国の重要文化財、2016年(平成28年)2月9日に国宝に指定されました。
●石清水八幡宮本殿は江戸時代前期の1634年(寛永11年)に江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)が再建しました。本殿はかつて平安時代前期の859年(貞観元年)に木工寮権允・橘良基が第52代・清和天皇の勅命によって建立されました。その後建立14度・修理17度が行われ、1634年(寛永11年)に再建されました。安土桃山時代の1580年(天正8年)に織田信長(おだのぶなが)が社殿を修復し、1598年(慶長3年)から関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の子・豊臣秀頼(とよとみひでより)が境内を再興しました。
徳川家光は江戸時代初期の1604年(慶長9年)8月12日に江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)と浅井長政(あざいながまさ)の娘・江(ごう・崇源院(すうげんいん))の次男として江戸城西の丸に生まれました。徳川家光の幼名は江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)と同じ竹千代、乳母は春日局(かすがのつぼね)です。徳川家光は病弱で、吃音(きつおん)があり、1606年(慶長11年)に徳川秀忠と江に寵愛される弟・徳川忠長(とくがわただなが)が生まれると世継ぎ争いが起こり、元和年間(1615年~1624年)に春日局による徳川家康への直訴によって徳川家光が世継ぎに決着しました。1620年(元和6年)に元服し、名前を徳川家光に改め、従三位権大納言に任命されました。1623年(元和9年)7月27日に徳川秀忠とともに上洛して伏見城で将軍宣下を受け、江戸幕府3代将軍になり、正二位内大臣に任命されました。徳川家光は武家諸法度(ぶけしょはっと)・参勤交代制(さんきんこうたいせい)などの諸制度を整備したり、キリシタン禁制や貿易統制の為に鎖国を行ったりし、江戸幕府の基礎を確立しました。なお徳川家光は多くの神社仏閣に寄進したり、再建などに尽力したりしています。
●石清水八幡宮本殿は内陣(正殿)・外陣(外殿)に分かれ、内陣と外陣の相の間に織田信長が寄進した黄金の雨樋(あまどい)が通っています。1579年(天正7年)12月に織田信長が山崎・宝積寺(ほうしゃくじ)で雨宿りしていた際、木製の雨樋が朽ち、雨漏りしていることを聞いて修理を命じ、翌1580年(天正8年)8月に唐金の雨樋に造り替えられました。黄金の雨樋は天災などの有事が起こった際、換金して対処するようにとの信仰心の深さがあったという伝承が残されています。なお黄金の雨樋は長さ約21.7メートル・幅約54センチ・深さ約21センチです。
織田信長は戦国時代(室町時代後期)の1534年(天文3年)6月23日(旧暦5月12日)に戦国大名で、織田弾正忠家の当主・織田信秀(おだのぶひで)と継室・土田御前(どたごぜん)の嫡男として生まれました。1551年(天文20年)に父・織田信秀が亡くなると家督を継ぎ、尾張守護代の織田大和守家・織田伊勢守家を滅ぼし、弟・織田信行(おだのぶゆき)を排除して尾張一国を統一しました。1560年(永禄3年)に桶狭間の戦(おけはざまのたたかい)で駿河国の戦国大名・今川義元(いまがわよしもと)を敗死させ、1562年(永禄5年)に三河の領主・徳川家康(とくがわいえやす)と同盟を結び、1567年(永禄10年)に美濃国の戦国大名・斎藤龍興(さいとうたつおき)を滅ぼすと尾張国・美濃国の2カ国を領する戦国大名になりました。1568年(永禄11年)に室町幕府第15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)を擁して上洛し、朝倉氏(あさくらし)・浅井氏(あざいし)を滅ぼし、1573年(天正元年)に足利義昭を河内に追放して室町幕府を滅ぼしました。1575年(天正3年)に長篠の戦い(ながしののたたかい)で甲斐国の戦国大名・武田勝頼(たけだかつより)を破り、1576年(天正4年)に安土城を築城しました。その後天下統一の途中である1582年(天正10年)6月21日(旧暦6月2日)の本能寺の変により、49才で自刃しました。
【石清水八幡宮 備考】
●石清水八幡宮の歴史(創建から現在)を紹介しています。
石清水八幡宮歴史(行教・清和天皇・・・)
●石清水八幡宮の見どころ(本殿・楼門など)を紹介しています。
石清水八幡宮見どころ

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