勧修寺書院・勧修寺見どころ(修学旅行・観光)

勧修寺書院

●勧修寺書院は1914年(大正3年)4月17日に国の重要文化財に指定されました。
●勧修寺書院は寺伝によると女性天皇だった第109代・明正天皇(めいしょうてんのう)の御殿を賜って建立されたとも言われています。また書院は江戸時代前期の1673年(延宝元年)~延宝3年(1675年)に造営された第111代・後西天皇(ごさいてんのう)の御殿を賜り、1686年(貞享3年)に移して建立されたとも言われています。書院には門跡の御座所である上段の間・対面所である次の間・門跡の私室と言われる柳の間などがあり、上段の間には違い棚である勧修寺棚があります。書院には土佐光起(とさみつおき)筆の「近江八景図」とその子・土佐光成(とさみつなり)筆の「竜田川紅葉図」が飾られています。
一般的に書院は禅宗寺院で、住持(じゅうじ(住持職・住職))の私室のことです。住持(住持職・住職)は寺院を管掌する最高位の僧侶のことです。室町時代以降に武家・公家の邸の居間兼書斎も書院と言うようになりました。なお書院は中国で書庫・書斎を意味し、日本で鎌倉時代に書見(しょけん)したり、学を講ずる場所を意味するようになり、その後客を応接する対面所を言うようになった。
第109代・明正天皇は江戸時代前期の1624年(元和9年)1月9日に第108代・後水尾天皇(ごみずのおてんのう)と皇后(中宮)・東福門院(とうふくもんいん・徳川和子(とくがわまさこ)の第2皇女として生まれました。1629年(寛永6年)10月29日に7歳で内親王宣下(ないしんのうせんげ)を受け、興子内親王(おきこないしんのう)の名を与えられ、同年11月8日に父・後水尾天皇が譲位し、第109代・明正天皇(めいしょうてんのう)になりました。第108代・後水尾天皇が紫衣事件(しえじけん)が起こったり、江戸幕府第3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)の乳母・春日局(かすがのつぼね)が無官のまま参内(さんだい)したりしたことに憤って譲位し、奈良時代の第48代・称徳天皇(しょうとくてんのう)以来859年振りに女性天皇が誕生しました。「明正」の名は女帝の第43代・元明天皇(げんめいてんのう)とその娘で、第44代・元正天皇(げんしょうてんのう)から取ったとされています。ただ譲位後も後水尾上皇が院政を行いました。1642年(寛永19年)9月に異母弟で、後水尾上皇の第4皇子・素鵞宮(すがのみや)が東福門院(徳川和子)の養子になり、翌1643年(寛永20年)に21歳で第110代・後光明天皇(ごこうみょうてんのう)となる素鵞宮に譲位し、明正上皇になりました。譲位直前には江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)が4か条からなる黒印状(こくいんじょう)が明正天皇に送られ、厳しく外部と隔離されることになったと言われています。譲位後の54年間を仙洞御所(せんとうごしょ)で暮らしました。なお第109代・明正天皇は1696年(元禄9年)12月4日に崩御しました。
●勧修寺書院は桁行正面六間・桁行背面九間・梁間東側面五間・梁間西側面四間で、入母屋造(いりもやづくり)のこけら葺(こけらぶき)です。書院は江戸時代初期の書院造の典型な建物と言われています。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。
こけら葺は木材の薄板を使って屋根を葺く方法です。こけら葺は板葺(いたぶき)の一種です。板葺では板厚が2~3ミリの場合にこけら葺、板厚が4~7ミリの場合に木賊葺(とくさぶき)、板厚が1~3センチの場合に栩葺(とちぶき)と言われています。板葺にはヒノキ・サワラ・スギ・エノキ・トクサ・クヌギなどが用いられます。板葺は古墳時代から屋根に用いられるようになったとも言われ、茅葺(かやぶき)に次いで古いとも言われています。
勧修寺

京都観光おすすめ

  1. 錦市場
  2. 竹林の道
  3. 嵐山
ページ上部へ戻る