金閣寺夕佳亭・金閣寺見どころ

金閣寺夕佳亭

●金閣寺夕佳亭は江戸時代前期に臨済宗の僧・鳳林承章(ほうりんじょうしょう)が修学院離宮(しゅがくいんりきゅう)を造営した後水尾上皇(第108代・後水尾天皇)の為に武将で、宗和流茶道の祖・金森宗和(かなもりそうわ)に造らせました。しかし1868年(明治元年)に焼失し、1874年(明治7年)に再建されました。夕佳亭の名称は眼下の金閣が夕日に映える景色がことに佳(よ)いことから名付けられたそうです。
鳳林承章は1593年(文禄2年)2月23日に父である准大臣(じゅんだいじん)・勧修寺晴豊(かじゅうじはるとよ)と母である刑部卿(ぎょうぶきょう)兼陰陽頭(おんようのかみ)・土御門有脩(つちみかどありなが)の娘の間に六男として生まれ、禅僧になって西笑承兌(せいしょうじょうたい)の法を嗣ぎ、金閣寺(鹿苑寺)の住持になりました。江戸時代前期の1625年(寛永2年)に金閣寺の本坊で、臨済宗相国寺派大本山・相国寺(しょうこくじ)に入って相国寺第95世になりました。後水尾上皇が出家する際に唄師(ばいし)を務め、その後も後水尾上皇と親交を深め、1668年(寛文8年)に亡くなりました。鳳林承章は1635年(寛永12年)から34年間にわたる日記「隔冥記(かくめいき)」を記し、京都を中心とした政治・文化の史料になっています。
第108代・後水尾天皇は1596年(文禄5年)6月29日に第107代・後陽成天皇と女御・中和門院(ちゅうかもんいん・近衛前子(このえさきこ))の間に第3皇子として生まれ、1611年(慶長16年)3月27日に第107代・後陽成天皇から譲位されて第108代・後水尾天皇になりました。その後江戸幕府による公家衆法度・勅許紫衣法度(ちょっきょしえはっと)・禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)の制定や東福門院(とうふくもんいん・徳川和子(とくがわまさこ))の入内・およつ御寮人事件(およつごりょうにんじけん)・金杯事件などにより、後水尾天皇は1629年(寛永6年)11月8日に江戸幕府への通告しないまま第2皇女・興子内親王(第109代・明正天皇)に譲位し、第109代・明正天皇、第110代・後光明天皇、第111代・後西天皇、第112代・霊元天皇後見人として院政を行いました。また後水尾天皇は1653年(承応2年)から修学院離宮(しゅがくいんりきゅう)の造営を開始し、1655年(承応4年)に完成しました。なお後水尾天皇は1680年(延宝8年)9月11日に85歳で崩御しました。
金森宗和は1584年(天正12年)に飛騨高山藩主・金森可重(かなもりありしげ)の長男として生まれたが、1614年(慶長19年)の大坂の陣で徳川方(東軍)につく父・金森可重らを批判して廃嫡され、母(遠藤慶隆(えんどうよしたか)の娘)とともに京都に隠棲しました。その後臨済宗大徳寺派の大本山・大徳寺(だいとくじ)で禅を学び、剃髪して「宗和」と号しました。金森宗和は祖父の金森長近(かなもりながちか)や父の金森可重と同様に茶の湯に秀でていたことから茶人として活躍し、利休七哲に数えられた茶人で、織部流茶道の祖・古田織部(ふるたおりべ)や作庭家として知られる遠州流茶道の祖・小堀遠州(こぼりえんしゅう)の作風を取り入れ、「姫宗和」とも言われる宗和流茶道の祖になり、江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)に招かれました。
●金閣寺夕佳亭では床柱に茶室では珍しい南天が使われ、「南天の床柱」と言われています。
南天は中国原産のメギ科ナンテン属の常緑低木です。南天は日本の東海道以西の本州・四国・九州を中心に分布しています。南天は中国から日本に渡来し、栽培種が野生化したものと言われています。南天は「難転」とも漢字が当てられ、「難を転ずる」に通ずることから縁起の良い木とされ、鬼門や裏鬼門に植えると良いとも言われています。
金閣寺見どころ

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