金閣寺鐘楼・金閣寺見どころ(修学旅行)

金閣寺鐘楼

●金閣寺鐘楼は1955年(昭和30年)に再建されました。金閣寺鐘楼は鎌倉時代前期に鋳造され、西園寺家(さいおんじけ)由来の梵鐘を釣っています。梵鐘の音色は雅楽(ががく)の黄鐘調(おうしきちょう)と言われています。
一般的に鐘楼は梵鐘を吊るす堂塔です。鐘楼は金堂(こんどう)・塔・講堂・経蔵・僧坊・食堂(じきどう)とともに七堂伽藍(しちどうがらん)と言われています。鐘楼は寺院で時刻や非常を告げる施設として設けられ、梵鐘の響きは功徳(くどく)になるとされました。鐘楼は古くは金堂の背後に経蔵と対し、一般に太鼓を置いた鼓楼(ころう)に対して伽藍の両翼を建立されました。鐘楼は古代中国の様式を模し、上下2層からなる楼造(たかどのづくり)の法隆寺(ほうりゅうじ)西院伽藍の鐘楼(平安時代)が唯一残された古式の鐘楼遺構と言われています。その後法隆寺東院の鐘楼(鎌倉時代)のように下層が裾(すそ)広がりの袴腰造(はかまごしつくり)や東大寺(とうだいじ)の鐘楼(鎌倉時代)のように四隅に柱を立て、四方を吹き放した吹放(ふきはなし)などの鐘楼が現れました。鐘楼は現在、高い土台の上に四本柱を立て、四方を吹抜きにしたものが一般的です。なお鐘楼は鐘撞堂・釣鐘堂などとも言われています。
西園寺家は右大臣・藤原不比等(ふじわらのふひと)の次男・藤原房前(ふじわらのふささき)を祖とする藤原北家(ふじわらほっけ)の支流・閑院流(かんいんりゅう)の一門です。西園寺家は権大納言・藤原公実(ふじわらのきんざね)の四男で、権中納言・藤原通季(ふじわらのみちすえ)を祖としています。西園寺家は公家として最上位の摂家(せっけ(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家))に次ぎ、大臣家(だいじんけ(正親町三条家・三条西家・中院家))の上の序列に位置する清華家(せいがけ(三条家・西園寺家・徳大寺家・久我家・花山院家・大炊御門家・今出川家))の家格を有し、大臣・大将を兼ねて太政大臣(だいじょうだいじん)になることができました。第4代・西園寺公経(さいおんじきんつね)は鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(みなもとのよりとも)の姪・一条全子(いちじょうまさこ)を妻とし、摂家将軍である鎌倉幕府第4代将軍・藤原頼経(ふじわらのよりつね)の祖父であったことから鎌倉幕府の信任を受けて朝廷の実権を掌握し、太政大臣に昇進しました。また西園寺公経から第10代・西園寺公宗(さいおんじきんむね)までは鎌倉幕府と朝廷の交渉役・関東申次(かんとうもうしつぎ)を務め、娘を次々と入内(じゅだい)・立后(りつごう)させて天皇の外戚になり、最上位の摂家を凌ぐ権勢を振るいました。
雅楽は日本古来の音楽・舞に中国など大陸から伝わった音楽・舞が融合し、10世紀頃に完成したと言われています。雅楽は神楽・久米舞など日本固有の国風の歌舞(くにぶりのうたまい)・中国系の唐楽・朝鮮系の高麗楽などに分類されます。
●金閣寺鐘楼は切妻造(きりづまづくり)の本瓦葺(ほんがわらぶき)です。
切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平(ひら)、棟と直角な面を妻(つま)と言います。切妻造は古くは真屋(まや)とも言われ、伊勢神宮(いせじんぐう)・出雲大社(いづもたいしゃ)などの社殿に採用されています。ちなみに四方向に傾斜する屋根面を持つ寄棟造(よせむねづくり)よりも格式が上とも言われています。なお切妻造は世界各地で見られる屋根の形式です。
本瓦葺は陶器製で、断面が湾曲した矩形の平瓦と断面が半円状の丸瓦とを交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。なお本瓦葺は本葺き(ほんぶき)とも言われています。
金閣寺見どころ

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