清水寺弁慶の指跡・清水寺見どころ(修学旅行)

清水寺弁慶の指跡

●清水寺弁慶の指跡は清水の舞台・本堂(国宝)裏側にある深さ2センチほどの直線状の溝です。溝は膝くらいの高さのところにあります。溝は弁慶の指跡ではないかと言われ、清水寺七不思議に数えられています。ちなみに弁慶は平安時代後期の人物、本堂は1633年(寛永10年)に再建されました。その為溝は電気が無かった時代にお百度参り(おひゃくどまいり)をする参拝者が本堂の壁をつたって歩いた時にできた痕跡とも言われています。
弁慶(べんけい・武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい))は軍記物語「義経記(ぎけいき)・南北朝時代から室町時代初期成立」によると紀伊国の熊野別当(べっとう)の子として生まれ、紀伊国出身とも言われています。父は鬼子だとして殺そうとしたが、叔母に引き取られて「鬼若」と名付けられ、京都で育てられたとも言われています。比叡山(ひえいざん)西塔(さいとう)の桜本僧正に預けられたが、修行せずに乱暴だったことから追い出され、自ら剃髪して武蔵坊弁慶と名乗ったと言われています。その後四国から播磨国に行っても乱暴狼藉を繰り返し、播磨国にある天台宗(てんだいしゅう)の別格本山・書写山(しょしゃざん)圓教寺(えんぎょうじ)の堂塔を炎上させたと言われています。やがて京都に戻り、1,000本の太刀(たち)を武者から奪い取る悲願を立て、999本まで奪い取りました。そして最後の1本を奪い取ろうと五条大橋で笛を吹きながら通りすがる牛若丸(うしわかまる・源義経(みなもとのよしつね)と出会って決闘したが、返り討ちに遭って主従の契りを結びました。ちなみに弁慶と牛若丸は五条天神社で出会い、翌日清水観音(清水寺)で決闘したとも言われています。その後源義経の平家討伐に尽力し、源義経が兄で、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(みなもとのよりとも)と対立した際も常に付き従い、奥州平泉(ひらいずみ)の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)のもとまで同行しました。ちなみに加賀国安宅の関での出来事は歌舞伎「勧進帳(かんじんちょう)」にも演じられています。しかし1189年(文治5年)の藤原泰衡(ふじわらのやすひら)による衣川の戦い(ころもがわのたたかい)で源義経とともに亡くなりました。弁慶は源義経が籠った持仏堂の入口で薙刀を振るって孤軍奮闘したが、無数の矢を雨のように受け、立ったまま絶命し、その姿が「弁慶の立往生」と語り継がれています。
お百度参りは神仏に百度参詣(さんけい)して祈願する民間信仰で、お百度(おひゃくど)などとも言われています。お百度参りは平安時代に始まったとも言われています。鎌倉時代に成立した歴史書「吾妻鏡(あずまかがみ)」などに記され、鎌倉時代初期には既に行われており、中世以降に民衆にも広まり、江戸時代に盛んになったと言われています。お百度参りでは社寺の境内で一定の距離を往復して100回祈願し、回数を間違えないように数取りとして、1回ごとに小石・竹串・こより・小枝などを置きました。社寺によってはお百度石の壁面にそろばんの形のものが備えられている場所もありました。ちなみにお百度参りは裸足で行った方が効果があるとも言われています。
本堂は1633年(寛永10年)に江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)の寄進によって再建されました。本堂は内々陣・内陣・外陣(礼堂(らいどう))・舞台に分かれ、内々陣に33年に1度開扉される本尊・千手観音(せんじゅかんのん)立像が安置されています。
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