清水寺月照・信海両上人遺蹟・清水寺見どころ

清水寺月照・信海両上人遺蹟

●清水寺月照・信海両上人遺蹟は清水寺北総門前に建立されています。月照・信海両上人遺蹟はいずれも清水寺の塔頭(たちゅう)・成就院(じょうじゅいん)の住職であった月照・信海兄弟の遺蹟であることを示す為に建立されています。月照・信海両上人遺蹟は高約148センチ・幅約20センチ・奥行約21センチです。なお月照・信海両上人遺蹟近くには月照・信海兄弟と西郷隆盛の歌碑も建立されています。月照の歌碑には「大君の 為には何か 惜しからむ 薩摩の迫門に 身は沈むとも」、信海の歌碑には「西の海 東の空とか 変はれども 心はおなじ 君が代のため」、西郷隆盛の歌碑には漢詩が刻まれています。
月照は江戸時代後期の1813年(文化10年)に大坂の町医者の長男・宗久として讃岐吉原(香川県善通寺市)で生まれました。1827年(文政10年)15歳の時に叔父で、成就院住職・蔵海の伝手で成就院に入り、忍向と名乗りました。経済的に困窮していた清水寺の立て直しに尽力し、1835年(天保6年)に成就院24代住職になりました。尊皇攘夷運動に傾倒し、左大臣・近衛忠煕(このえただひろ)、青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)第47世門主・尊融法親王(そんゆうほうしんのう・久邇宮朝彦親王(くにのみやあさひこしんのう)、薩摩藩藩士・西郷隆盛(さいごうたかもり)らと親交を持ちました。1858年(安政5年)に安政の大獄が始まると西郷隆盛とともに京都を脱出して薩摩国に渡ったが、薩摩藩が月照の保護を拒否したことから1858年(安政5年)12月20日(旧暦11月16日)に錦江湾(きんこうわん)で西郷隆盛とともに入水自殺しました。ただ西郷隆盛は一命を取り留めました。なお清水寺では月照の命日である11月16日に落葉忌の法要を行っています。
信海は江戸時代後期の1821年(文政4年)に大坂の町医者の子、月照の弟・綱五郎として生まれました。12歳の時に叔父で、成就院住職・蔵海の伝手で成就院に入りました。その後高野山で修業し、万勝院住職を経て成就院に戻りました。信海は兄・月照上人とともに真言密教子島流の復興と尊皇攘夷運動に傾倒しました。兄で、成就院24代住職・月照が亡くなると成就院25代住職になりました。その後青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)第47世門主・尊融法親王(そんゆうほうしんのう・久邇宮朝彦親王(くにのみやあさひこしんのう)の為に攘夷祈願をして捕えられ、その後江戸の伝馬町牢内に送られ、1859年(安政6年)に獄死しました。
成就院(じょうじゅいん)は室町時代の応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))の兵火で焼失した清水寺を再興した清水寺本願職・願阿上人(がんあしょうにん)の住房が起源です。その後成就院と名付けられて清水寺の塔頭(たちゅう)になり、伽藍の整備や財政の維持・管理などを担当しました。室町時代後期の1510年(永正7年)に第104代・後柏原天皇の勅願寺(ちょくがんじ)になったが、江戸時代前期の1629年(寛永6年)の火災で焼失しました。1639年(寛永16年)に第108代・後水尾天皇の中宮・東福門院(とうふくもんいん・徳川和子(とくがわまさこ))の寄進で現在の建物が再建されました。
清水寺見どころ

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