清水寺平景清の足形石・清水寺見どころ(修学旅行)

清水寺平景清の足形石

●清水寺平景清の足形石(仏足石)は朝倉堂(重要文化財)東側にあります。平景清の足形石は平景清(たいらのかげきよ)の足形とも、武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)の足形とも言われ、清水寺七不思議に数えられています。平景清の足形石は約50センチ(一尺七寸)もあります。
平景清は平安時代後期に平氏譜代の有力家人である上総介(かずさのすけ)・藤原忠清(ふじわらのただきよ)の子・藤原景清(ふじわらのかげきよ)として生まれました。藤原景清は平家に仕え、都落ちに従ったことから平景清とも言われています。また上総介・藤原忠清の七男として生まれたことから上総七郎(かずさのしちろう)とも言われています。更に勇猛果敢で、叔父・大日房能忍(だいにちぼうのうにん)を殺したことから悪七兵衛(あくしちびょうえ)とも言われました。1180年(治承4年)に第81代・安徳天皇(あんとくてんのう)の滝口武者(たきぐちのむしゃ)になり、源頼政(みなもとのよりまさ)との戦いに参戦し、富士川の戦い(ふじかわのたたかい)の直後に源氏追討の為に信濃守(しなののかみ)に推挙されました。1183年(寿永2年)の源義仲(みなもとのよしなか・木曾義仲(きそよしなか))との戦いに平知盛(たいらのとももり)らに従って参戦し、平氏の侍大将として活躍しました。その後も一ノ谷の戦い(いちのたにのたたかい)・屋島の戦い(やしまのたたかい)など源平の合戦に参戦したが、1185年(文治元年)の壇の浦の戦い(だんのうらのたたかい)では戦場を逃れ、平氏滅亡後も生き延びました。その後平氏再興を図る平知忠(たいらのともただ)の挙兵に加わったが、1195年(建久6年)に奈良・東大寺(とうだいじ)供養に上洛(じょうらく)した鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(みなもとのよりとも)に降伏し、八田知家(はったともいえ)に預けられたが、その後断食して自害したとも言われています。なお平景清は浄瑠璃(じょうるり)「出世景清」などの題材などになっています。
弁慶(武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい))は軍記物語「義経記(ぎけいき)」によると紀伊国の熊野別当(べっとう)の子として生まれたとも言われています。父は鬼子だとして殺そうとしたが、叔母に引き取られて「鬼若」と名付けられ、京都で育てられたとも言われています。比叡山の桜本僧正に預けられたが、修行せずに乱暴だったことから追い出され、自ら剃髪して武蔵坊弁慶と名乗ったと言われています。その後四国から播磨国に行っても乱暴狼藉を繰り返し、播磨国にある圓教寺(えんぎょうじ)の堂塔を炎上させたと言われています。やがて京都に戻り、1,000本の太刀を武者から奪い取る悲願を立て、999本まで奪い取りました。そして最後の1本を奪い取ろうと五条大橋で牛若丸(源義経(みなもとのよしつね)と出会って決闘したが、返り討ちに遭って主従の契りを結びました。ちなみに弁慶と牛若丸は五条天神社で出会い、翌日清水観音(清水寺)で決闘したとも言われています。その後源義経の平家討伐に尽力し、源義経が兄で、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝と対立した際も常に付き従い、奥州平泉(ひらいずみ)の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)のもとまで同行しました。しかし1189年(文治5年)の藤原泰衡(ふじわらのやすひら)による衣川の戦い(ころもがわのたたかい)で源義経とともに亡くなりました。
朝倉堂は江戸時代前期の1633年(寛永10年)に再建されました。朝倉堂は戦国時代(室町時代後期)の1510年(永正7年)に観音を篤く信仰した守護大名・朝倉貞景(あさくらさだかげ)が建立した法華三昧堂(ほっけさんまいどう)に由来しています。朝倉堂には秘仏の千手観音(せんじゅかんのん)・毘沙門天(びしゃもんてん)・地蔵菩薩(じぞうぼさつ)などが安置されています。
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