下鴨神社神服殿・下鴨神社見どころ

下鴨神社神服殿

●下鴨神社神服殿は1903年(明治36年)4月15日に国の重要文化財に指定されました。
●下鴨神社神服殿は江戸時代前期の1628年(寛永5年)に造営されました。下鴨神社神服殿には平安時代から天皇の御座所(ござしょ)があり、その部屋は昔から開けずの間と言われ、普段使用が禁じられていました。1854年(嘉永6年)4月6日の大火の際には第121代・孝明天皇も使用しました。大火は芝御殿(第121代・孝明天皇の異母姉・敏宮(ときのみや)の御殿)に住した孝順院(第120代・仁孝天皇の掌侍(しょうじ))の下女・紅梅が梅の木について毛虫を焼き殺そうとした火が建物に飛び火したのが原因と言われ、大火は毛虫焼けと言われました。なお下鴨神社神服殿では1994年(平成6年)に天皇・皇后両陛下が利用した椅子(玉座)や非公開が特別公開されたこともありました。
第121代・孝明天皇は江戸時代後期の1831年(天保2年)7月22日に第120代・仁孝天皇と正親町雅子(おおぎまちなおこ)の第4皇子として生まれました。1835年(天保6年)に親王宣下を受け、1840年4(天保11年)に皇太子になりました。1846年(弘化3年)に父である第120代・仁孝天皇が崩御すると第121代・孝明天皇に即位しました。1854年(嘉永7年)の日米和親条約(神奈川条約)は許したが、1858年(安政5年)の日米修好通商条約では勅許を拒否しました。攘夷(じょうい)鎖国を望み、江戸幕府が独断で日米修好通商条約を調印した際には一時譲位を表明しました。しかし過激な討幕運動に反対して公武合体策を執り、1860年(万延元)に皇妹・和宮(かずのみや)を江戸幕府第14代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)に嫁がせました。尊攘過激派の堂上独占に批判的で、三条実美らの七卿が都落ちになり、第121代・孝明天皇の崩御後に尊攘派の公家が復活しました。第121代・孝明天皇は1867年(慶応2年)1月30日に天然痘(てんねんとう)で崩御しました。
一般的に御座所(ござしょ)は天皇など高貴な人の居室です。玉座は天皇など国家の君主が座る席(椅子)です。天皇の玉座には皇位継承儀式である即位の礼に用いられる高御座(たかみくら)があります。
一般的に神服殿は神事に着る神服を奉製する社殿です。ちなみに神服には神事に着る服以外にも、神の料として神に献上する衣服、大嘗祭(だいじようさい)の時に神に献上する衣服などの意味もあります。
●下鴨神社神服殿は桁行五間・梁間四間で、入母屋造(いりもやづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
檜皮葺は屋根葺手法の一形式です。檜皮葺では檜(ひのき)の樹皮を用いて屋根を葺きます。檜皮葺は日本以外では見られない日本古来の手法です。檜皮葺は飛鳥時代の668年(天智天皇7年)に滋賀県大津市の廃寺・崇福寺(すうふくじ)の諸堂が檜皮で葺かれた記録が最古の記録です。
下鴨神社見どころ

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