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真珠庵通仙院・真珠庵見所(修学旅行・観光)
真珠庵通仙院
●真珠庵通仙院は1900年(明治33年)4月7日に国の重要文化財に指定されました。
●真珠庵通仙院は江戸時代前期(1615年~1660年)に第106代・正親町天皇(おおぎまちてんのう)の女御(にょうご)の化粧殿(けわいでん)を移築して建立されたと言われています。通仙院に接続して茶室・庭玉軒(ていぎょくけん)が建てられています。
第106代・正親町天皇は1517年(永正14年)6月18日に第105代・後奈良天皇(ごならてんのう)と万里小路栄子(までのこうじえいし・吉徳門院(きっとくもんいん))の第2皇子・方仁(みちひと)として生まれました。1533年(天文2年)12月に親王宣下(しんのうせんげ)を受けて元服し、1557年(弘治3年)に父・後奈良天皇が崩御すると第106代・正親町天皇に即位しました。この頃朝廷・公家は財政難で、毛利氏第12代当主・毛利元就(もうりてるもと)らの献金により、1560年(永禄3年)1月27日に即位の礼が行われました。正親町天皇は勅命によって戦乱で減少した御料所(皇室料)の回復を諸国の戦国大名に発し、勢力拡大を図る織田信長(おだのぶなが)が勅命に応じ、正親町天皇を利用しました。正親町天皇は織田信長とその敵対勢力に度々講和を勅命しました。ただ1576年(天正4年)に正親町天皇と織田信長は奈良・興福寺(こうふくじ)の別当人事を巡って対立するようになり、織田信長は譲位を度々要請したが、正親町天皇は拒否し、1582年(天正10年)に本能寺の変が起こって織田信長が自刃しました。1586年(天正14年)12月17日に孫である第107代・後陽成天皇(ごようぜいてんのう)に譲位しました。正親町天皇は織田信長や関白・豊臣秀吉らの援助により、御所の修理・伊勢神宮の造営遷宮・朝儀の復興などを図りました。なお第106代・正親町天皇は1593年(文禄2年)2月6日に崩御しました。
庭玉軒は武将・茶人で、宗和流茶道の祖・金森宗和(かなもりそうわ)好みと伝える二畳台目下座床の席です。庭玉軒は内露地の一部を庇屋根で覆い、庇屋根と壁で囲まれた土間に手水鉢(ちょうずばち)や飛石(とびいし)が配されています。
●真珠庵通仙院は桁行約12.2メートル・梁間約12.1メートルで、北面切妻造(きりづまづくり)・南面入母屋造(いりもやづくり)のこけら葺(こけらぶき)です。
切妻造は屋根の最頂部の棟(むね)から両側に葺き下ろし、その両端を棟と直角に切った屋根の形式です。切妻造は本を開いて伏せたような形で、平行な面を平(ひら)、棟と直角な面を妻(つま)と言います。切妻造は古くは真屋(まや)とも言われ、伊勢神宮(いせじんぐう)・出雲大社(いづもたいしゃ)などの社殿に採用されています。ちなみに四方向に傾斜する屋根面を持つ寄棟造(よせむねづくり)よりも格式が上とも言われています。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
こけら葺は木材の薄板を使って屋根を葺く方法です。こけら葺は板葺(いたぶき)の一種です。板葺では板厚が2~3ミリの場合にこけら葺、板厚が4~7ミリの場合に木賊葺(とくさぶき)、板厚が1~3センチの場合に栩葺(とちぶき)と言われています。板葺にはヒノキ・サワラ・スギ・エノキ・トクサ・クヌギなどが用いられます。板葺は古墳時代から屋根に用いられるようになったとも言われ、茅葺(かやぶき)に次いで古いとも言われています。
真珠庵