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聖護院書院・聖護院見所(修学旅行・観光)
聖護院書院
●聖護院書院は1957年(昭和32年)6月18日に国の重要文化財に指定されました。
●聖護院書院は江戸時代前期(1661年~1750年)に御所の書院として建てられ、1676年(延宝4年)に聖護院に移されたと言われています。ちなみに聖護院は平安時代後期の1090年(寛治4年)にかつて修験道の開祖・役行者(えんのぎょうじゃ)が創建した常光寺があった現在の場所に創建されたが、その後応仁の乱(おうにんのらん)・1487年(文明19年)の放火など4回の火災で焼失し、京都市内を点々としたが、1676年(延宝4年)に創建の地で、現在の場所に戻って再興されました。なお書院は主室(床・棚・附書院付)・次の間(床・棚付)・背面室(八畳・六畳・四畳)・玄関・玄関次の間(床付)から構成され、二之間に大床があるのは門跡寺院に多く、御所には稀だと言われています。
一般的に書院は禅宗寺院で、住持(じゅうじ(住持職・住職))の私室のことです。住持(住持職・住職)は寺院を管掌する最高位の僧侶のことです。室町時代以降に武家・公家の邸の居間兼書斎も書院と言うようになりました。なお書院は中国で書庫・書斎を意味し、日本で鎌倉時代に書見(しょけん)したり、学を講ずる場所を意味するようになり、その後客を応接する対面所を言うようになった。
京都御所は794年(延暦13年)の第50代・桓武天皇(かんむてんのう)による平安京遷都の際、内裏に代わる臨時の里内裏・土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)として造営されました。内裏は京都御所から西約1.7キロの朱雀大路(すざくおおじ)沿いにあったが、失火や政変による火災で度々焼失し、鎌倉時代の1227年(安貞元年)の火災後に再建されることはありませんでした。その後南北朝時代に第96代・後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が京都を逃れ、光厳天皇(こうごんてんのう)が北朝初代天皇になると土御門東洞院殿が北朝の内裏に定着し、1392年(明徳3年)の南北朝の合一後に正式な御所になりました。室町時代に室町幕府3代将軍・足利義満が敷地を拡大し、安土桃山時代に織田信長や関白・豊臣秀吉が整備しました。しかしその後度々焼失し、その都度再建されたり、建て替えられたりし、江戸時代後期の1855年(安政2年)に現在の内裏が再建されました。
門跡寺院は平安時代以後に皇族・貴族などが出家して居住した寺院です。またその住職も意味しました。899年(昌泰2年)に宇多法皇が仁和寺(にんなじ)に入寺したから後世に御門跡(ごもんぜき)と称するようになりました。室町時代以後に寺院の格式を示すようになり、江戸時代に幕府が制度化し、宮門跡・摂家門跡・清華門跡・准門跡の区別が生まれました。
●聖護院書院は入母屋造(いりもやづくり)の桟瓦葺(さんがわらぶき)です。(一部葺きおろしです。)書院は庇がこけら葺(こけらぶき)です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式です。寄棟造の屋根の上に切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。京都御所の紫宸殿(ししんでん)のように切妻と寄棟の角度が一続きでないものは錣屋根(しころやね)とも言われています。日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとも言われています。入母屋造は法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂・唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂に採用されています。
桟瓦葺は平瓦と丸瓦を一体化させた波型の桟瓦を使用して屋根を葺く方法です。ちなみに本瓦葺は平瓦と丸瓦を交互に組み合わせて屋根を葺く方法です。瓦葺は飛鳥時代に中国・朝鮮半島から寺院建築の技術とともに伝来しました。瓦葺は檜皮葺(ひわだぶき)・茅葺(かやぶき)・板葺(いたぶき)などに比べ耐水性・耐火性に優れ、台風の多い日本に適していました。
こけら葺は木材の薄板を使って屋根を葺く方法です。こけら葺は板葺(いたぶき)の一種です。板葺では板厚が2~3ミリの場合にこけら葺、板厚が4~7ミリの場合に木賊葺(とくさぶき)、板厚が1~3センチの場合に栩葺(とちぶき)と言われています。板葺にはヒノキ・サワラ・スギ・エノキ・トクサ・クヌギなどが用いられます。
聖護院見どころ