東福寺二王門・東福寺見所(修学旅行・観光)

東福寺二王門

●東福寺二王門は1924年(大正13年)4月15日に国の重要文化財に指定されました。
●東福寺二王門は安土桃山時代の1597年(慶長2年)に建立されました。二王門はかつて三聖寺(さんしょうじ)に建立されていたが、1873年(明治6年)に三聖寺が万寿寺(まんじゅじ)に合寺され、1886年(明治19年)に万寿寺が東福寺の塔頭になり、二王門が東福寺山内の現在の場所に移されました。
三聖寺は鎌倉時代の1261年(弘長元年)頃に十地覚空(じゅうちかくくう)とその弟子・東山湛照(とうざんたんしょう)が創建したとも言われています。鎌倉時代に大伽藍を有していたが、その後徐々に衰微したとも言われています。また南北朝時代の1391年(徳明徳2年)に全山が焼失し、その後再建に着手されたとも言われています。なお三聖寺は1873年(明治6年)に万寿寺に合寺されました。
万寿寺は「京城万寿禅寺記」などによると平安時代後期に白河上皇(第72代・白河天皇)が1096年(永長元年)に数え年21歳で亡くなった第1皇女・郁芳門院(いくほうもんいん・てい子内親王)の菩提の為に六条内裏(ろくじょうだいり)に創建した六条御堂(ろくじょうみどう)が起源とも言われています。鎌倉時代に浄土宗の開祖・法然上人(ほうねんしょうにん)の弟子・湛空(たんくう)が住し、湛空から十地覚空(じゅうちかくくう)に受け継がれ、浄土宗の寺院だったと言われています。その後十地覚空とその弟子・東山湛照が東福寺開山である聖一国師(しょういちこくし)・円爾(えんに)に帰依して臨済宗の寺院に改め、寺号も「万寿禅寺」と改めました。1273年(文永10年)に焼失し、1330年(元徳2年)に第91代・後宇多天皇の皇女・崇明門院(すうめいもんいん)から土地を賜って北側に移りました。室町時代の1341年(興国2年・暦応4年)に十刹(じっせつ)の第4位に数えられ、その後京都五山に昇格して第5位に数えられました。しかし1434年(永享6年)に焼失して衰微し、天正年間(1573年~1592年)に京都五山の第4位に数えられた東福寺の北側に建立されていた三聖寺の隣地に移りました。1873年(明治6年)に三聖寺を合寺し、1886年(明治19年)に東福寺の塔頭になりました。
●東福寺二王門は八脚門で、切妻造の本瓦葺です。二王門にはかつては仁王像を安置していました。
一般的に仁王門(二王門)は仏教・寺院を守護し、仁王(におう・二王)とも言われる金剛力士(こんごうりきし)像を安置する門です。初期の仏教文献には門の左右に夜叉(やしゃ)を配することが記され、インド中部のマディヤ・プラデーシュ州北部にある仏教遺跡・バールフットの塔門(とうもん)に例があります。バールフットはシュンガ朝時代(紀元前2世紀半ば)に建てられた廃塔の周囲から門と欄楯(らんじゅん)の一部が発見されました。なお日本では奈良時代(710年~794年)に仁王門の建立が盛んになり、飛鳥時代(592年~710年)に建立された法隆寺(ほうりゅうじ)西院の中門が最古の仁王門です。
金剛力士は仏教において天界に住む天部(てんぶ)で、仏教の護法善神(守護神)です。天部には阿形(あぎょう)の金剛力士である那羅延堅固(ならえんけんご)・吽形(うんぎょう)の金剛力士である密迹金剛士(みっしゃくこんごうし)などの二十八部衆(にじゅうはちぶしゅう)などがあります。なお二十八部衆は千手観音(せんじゅかんのん)の眷属(けんぞく)とされています。
【東福寺 備考】
*参考・・・京都・東福寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ
●東福寺の歴史(創建から現在)を紹介しています。
東福寺歴史(九条道家・円爾)
●東福寺の見どころ(三門・通天橋など)を紹介しています。
東福寺見どころ(三門・通天橋など)

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