東福寺の歴史は九条道家が祖父の菩提寺を発願したのが起源

東福寺

東福寺の時代別年表と重要人物

東福寺は1236年(嘉禎2年)に九条道家が祖父・九条兼実の菩提寺として、像高5丈の釈迦像を安置する寺院を創建することを発願し、仏殿を建立したのが起源です。寺号・東福寺は東大寺と興福寺から1字ずつ取りました。なお歴史は修学旅行・観光の為に簡単にマトメています。

東福寺見どころ(三門・通天橋など)

【東福寺が建立されている場所】

  • 東福寺が建立されている場所は平安時代中期の924年(延長2年)に公卿(くぎょう)・藤原忠平(ふじわらのただひら)が創建した藤原氏の氏寺・法性寺(ほっしょうじ)があった場所でした。法性寺は天台宗(てんだいしゅう)の寺院でした。その後藤原道長(ふじわらのみちなが)が五大堂を建立したり、藤原忠通(ふじわらのただみち)が妻・宗子とともに最勝金剛院(さいしょうこんごういん)を建立したり、九条兼実(くじょうかねざね)が山荘・月輪殿(つきのわどの)を造営し、阿弥陀堂を建立したりしたとも言われています。

【東福寺の起源・始まり】

  • 東福寺は鎌倉時代前期の1236年(嘉禎2年)に摂政(せっしょう)・九条道家(くじょうみちいえ)が祖父・九条兼実の菩提寺(ぼだいじ)として、像高5丈(約15メートル)の釈迦(しゃか)像を安置する寺院を創建することを発願し、仏殿を建立したのが起源と言われています。東福寺の寺号は華厳宗(けごんしゅう)の大本山・東大寺(とうだいじ)と法相宗(ほっそうしゅう)の大本山・興福寺(こうふくじ)から1字ずつ取り、「東福寺」になり、1243年(寛元元年)に宋(中国)から帰国した聖一国師(しょういちこくし)・円爾(えんに)が開山になりました。なお釈迦像は1249年(建長元年)に完成したが、1319年(元応元年)に火災で焼失しました。その後14世紀半ばに再造仏されたが、1881年(明治14年)に再び火災で焼失しました。東福寺には14世紀半ばに再造仏され、1881年(明治14年)の火災で焼け残った釈迦像の左手が残されているそうです。
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【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】

  • 1239年(延応元年)に仏殿の建立が開始され、1255年(建長7年)に完成したと言われています。仏殿の建立には1236年(嘉禎2年)の東福寺創建から19年間を要しました。ちなみに1252年(建長4年)に九条道家が亡くなるとその子・藤原頼経(ふじわらのよりつね・九条頼経)、そして一条実経(いちじょうさねつね)、二条良実(にじょうよしざね)に遺志が引き継がれました。なお東福寺には天台宗(てんだいしゅう)・真言宗(しんごんしゅう)・禅宗(ぜんしゅう)兼学の堂塔が建立され、新大仏寺とも言われました。
  • 1246年(寛元4年)2月に東福寺開山である聖一国師・円爾が普門寺(ふもんじ)を贈られて常住しました。
  • >1273年(文永10年)に法堂・祖堂・祠堂が建立しました。
  • 1319年(元応元年)に火災で東福寺の伽藍が全焼し、像高5丈(約15メートル)の釈迦像も焼失したと言われています。

【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の歴史・出来事】

  • 1334年(建武元年)に東福寺が五山制度で第3位に列せられ、1342年(興国3年・暦応5年)に第5位に列せられました。なお京都五山は天龍寺(てんりゅうじ)・相国寺(しょうこくじ)・建仁寺(けんにんじ)・東福寺・万寿寺(まんじゅじ)、鎌倉五山は建長寺(けんちょうじ)・円覚寺(えんかくじ)・寿福寺(じゅふくじ)・浄智寺(じょうちじ)・浄妙寺(じょうみょうじ)です。
  • 1334年(建武元年)に方丈が焼失したと言われています。
  • 1336年(延元元年・建武3年)に仮仏殿が焼失したと言われています。
  • 1346年(興国7年・貞和2年)に関白・一条経道(いちじょうのりみち)が仏殿を再建しました。
  • 1351年(正平6年・観応2年)に東福寺は南朝第2代で、第97代・後村上天皇(ごむらかみてんのう)の祈願所になりました。
  • 1380年(天授6年・康暦2年)に普門寺が十刹に列せられました。
  • 1386年(元中3年・至徳3年)に室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)が東福寺を京都五山の第4位に列しました。また1386年(元中3年・至徳3年)に法堂が再建されました。

【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】

  • 1408年(応永15年)に画僧・明兆(みんちょう・兆殿司(ちょうでんす))が「大涅槃図(だいねはんず)」を描いたと言われています。
  • 室町時代前期に室町幕府4代将軍・足利義持(あしかがよしもち)の援助により、東福寺の伽藍が修理されました。
  • 室町時代中期に応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))により、東福寺の塔頭(たちゅう)などが焼失しました。
  • 1478年(文明10年)に室町幕府8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)が東福寺の寺領を安堵しました。

【戦国時代(1493年頃~1590年頃)の歴史・出来事】

  • 1526年(大永6年)に兵火によって焼失しました。東福寺が全山焼失とも言われています。

【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】

  • 天正年間(1573年~1593年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が東福寺の寺領1,854石を安堵しました。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】

  • 江戸時代前期に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)、後水尾上皇(第108代・後水尾天皇(ごみずのおてんのう))、江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)などの援助により、東福寺の伽藍が修理されました。
  • 1614年(慶長19年)に東福寺227世・文英清韓(ぶんえいせいかん)が豊臣秀吉の子・豊臣秀頼(とよとみひでより)の請に応じ、方広寺(ほうこうじ)の鐘銘「国家安康君臣豊楽」を撰文したことから方広寺鐘銘事件が起こり、豊臣家の滅亡に繋がりました。なお文英清韓は東福寺の塔頭・天得院(てんとくいん)の住持(じゅうじ・住職)だったことから徳川家康の怒りを招いて天得院が取り壊されました。

【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】

  • 明治維新後の神仏分離令・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、東福寺山内に70か院近くあった塔頭が25か院に減少しました。
  • 1881年(明治14年)に仏殿・法堂・方丈・庫裡が焼失しました。
  • 1917年(大正6年)に本堂(仏殿兼法堂)が着工され、1934年(昭和9年)に完成しました。1890年(明治23年)に方丈、1910年(明治43年)に庫裡が再建されました。

【東福寺の開山とされる聖一国師・円爾】

聖一国師・円爾は1202年(建仁2年)に駿河国に生まれました。幼い時から静岡・久能寺の堯弁に師事し、倶舎論・天台を学びました。滋賀・三井寺で落髪し、奈良・東大寺で受戒しました。その後群馬・長楽寺の釈円栄朝、鎌倉・寿福寺の退耕行勇に師事して臨済禅を学びました。1235年(嘉禎元年)に南宋(中国)に神子栄尊とともに渡航し、中国五山の第一である径山寺第34世・無準師範の法を嗣ぎました。1241年(仁治2年)に帰国し、1242年(仁治3年)に博多・承天寺を開山し、1236年(嘉禎2年)に東福寺を開山しました。博多祇園山笠は円爾が民衆に担がれた施餓鬼棚に乗り、町を水を撒きながら清めて疫病退散を祈祷したのが始まりと言われています。また宮中で禅を講じて臨済宗の流布に尽力し、1269年(文永6年)に10代目東大寺大勧進職に任命されました。晩年に駿河国に戻り、母親の実家近くに回春院を開山しました。また南宋から持ち帰ったお茶を栽培させ、静岡茶の始祖とも称されています。なお聖一国師・円爾は1280年(弘安3年)に亡くなりました。

【東福寺 備考】
*参考・・・東福寺(歴史・見どころ・・・)ホームページ

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