梅宮大社の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

梅宮大社

梅宮大社の歴史を時代別年表にまとめ

梅宮大社の歴史を簡単にまとめています。梅宮大社は奈良時代に第30代・敏達天皇の後裔で、橘氏の祖・橘諸兄の母・県犬養三千代が橘氏一門の氏神として山城国相楽郡井出庄(綴喜郡井出町付近)に祀ったのが起源と言われています。(時代別年表・重要人物下記参照)

【前史(祭神)】

★大山祇神(おおやまづみのかみ・酒解神(さかとけのかみ))は皇祖・天照大神(あまてらすおおみかみ)の天孫・瓊ヶ杵尊(ににぎのみこと)の皇后・木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)の父神です。大山祇神は瓊ヶ杵尊の国土経営に力添えをした神です。また大山祇神は農業山林鉱産の守護神、航海の神、そして酒造の守護神でもあり、酒解神とも言われています。木花咲耶姫命(酒解子神(さかとけこのかみ))は大山祇神の子神で、瓊々杵尊(大若子神(おおわくこのかみ)と結婚すると一夜にして懐妊し、瓊々杵尊が疑うと砂の上に無戸室を建て、自身の貞節を天地神明に誓い、御産室に火を放って炎の中で彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと・小若子神(こわくこのかみ))を産み、子孫繁栄・授子安産の神とされています。

【梅宮大社創建(起源・由来)】

★梅宮大社は奈良時代前期に第30代・敏達天皇(びだつてんのう)の後裔で、橘氏の祖・橘諸兄(たちばなのもろえ)の母・県犬養三千代(あがたいぬかいみちよ・橘三千代)が橘氏一門の氏神として山城国相楽郡井出庄(やましろのくにそうらくぐんいでのしょう・京都府綴喜郡井出町付近)に祀ったのが起源と言われています。また梅宮大社は橘諸兄が氏神として祀ったとも言われています。

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【奈良時代(710年頃~794年頃)の歴史・出来事】

★天平宝字年間(757年~765年)にいずれも県犬養三千代の娘で、第45代・聖武天皇(しょうむてんのう)の后・光明皇后(こうみょうこうごう)と藤原南家の祖・藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)の夫人・牟婁女王(むろじょうおう)が奈良に移し、更に泉川(木津川(きづがわ))の上流・かせ山に移したと言われています。

【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】

★平安時代前期に第52代・嵯峨天皇(さがれんのう)の后・檀林皇后(だんりんこうごう・橘嘉智子(たちばなのかちこ))が梅宮大社を現在の場所に移し、親しく行啓して盛大な祭儀が行われたと言われています。神前で雅楽(ががく)が奉納され、その後4月上の酉の日に梅宮祭が行われるようになり、雅楽祭として名を高めました。橘嘉智子は嵯峨天皇の后になったが、子供を授からなかったことから梅宮大社に祈願するとやがて第54代・仁明天皇(にんみょうてんのう)を授かったとも言われ、梅宮大社は子授け・安産の神として信仰されるようになりました。橘嘉智子は仁明天皇を産んだことから橘氏の中興に貢献しました。ちなみに「伊呂波字類抄」によると梅宮大社は檀林皇后が橘氏の氏神を円堤寺(えんていじ・井堤寺)に祀ったのが起源とも言われています。また円堤寺は橘諸兄が創建したとも言われています。なお梅宮大社では本殿の東側にまたげ石と称される2個の丸石があり、丸石をまたぐと子供が授かるとして信仰されています。
★承和年間(834年~848年)に梅宮祭が国家の主要な神祭の中に加えられました。
★836年(承和3年)に酒解神(大山祇神)・大若子神(瓊々杵尊)・小若子神(彦火火出見尊)・酒解子神(木花咲耶姫命)に神階が授けられました。
★仁寿年間(851年~854年)に相殿に嵯峨天皇・檀林皇后(橘嘉智子)・仁明天皇・橘清友(たちばなきよとも)が合祀されました。ちなみに嵯峨天皇は檀林皇后の夫、仁明天皇は檀林皇后の子、橘清友は檀林皇后の父になります。
★平安時代中期に「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)・927年(延長5年)成立」に「自玉手祭来酒解神社 名神大 元名山埼社」と記され、名神大社(みょうじんたいしゃ)に列せられました。祈年祭(としごいまつり)・月次祭(つきなみさい)・新嘗祭(にいなめさい)では朝廷から幣帛(へいはく)を賜りました。
★平安時代中期に室町時代中期の神道家・吉田兼倶(よしだかねとも)が編纂したと言われる「二十二社註式(にじゅうにしゃちゅうしき )」によると二十二社の下八社に列せられました。
★1165年(永万元年)の「神祇官諸社年貢注文」に梅宮大社は松尾大社(まつのおたいしゃ)・伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)などの山城国5社に含まれ、藁200束・薪200束を神祇官に調進していました。
★1180年(治承4年)に神階が最高位の正一位に昇叙しました。
★平安時代に年2回の梅宮祭が勅祭として行われました。

【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】

★鎌倉時代以降に橘氏の衰退に伴って、梅宮大社も衰退したが、祭祀は継続されていました。梅宮祭では橘氏が奉幣使を行っていたが、橘氏が衰退すると藤原氏が度々代行して行われていました。

【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】

★室町時代中期に応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))が起こり、1474年(文明6年)に兵火によって社殿が焼失ました。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】

★江戸時代に朱印地として59石余が与えられました。
★1698年(元禄11年)に火災によって社殿が焼失しました。
★1700年(元禄13年)に江戸幕府5代将軍・徳川綱吉(とくがわよしつね)の命により、丹波亀山城主が奉行になって本殿・拝殿・楼門・若宮社・護王社が再建されました。
★1828年(文政11年)に台風によって大破した拝殿、1830年(文政13年)に随身門が再建されました。

【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】

★1871年(明治4年)に梅宮神社として官幣中社に列せられました。
★1951年(昭和26年)に社名を梅宮大社に改めました。

【県犬養三千代:梅宮大社創建】

県犬養三千代は665年(天智天皇4年)に県犬養東人の娘として生れたとも言われています。県犬養氏は屯倉を守護する伴造氏族で、672年(天武天皇元年)の壬申の乱で県犬養大侶が大海人皇子(第40代・天武天皇)に近侍し、684年(天武天皇13年)に宿禰姓を賜りました。県犬養三千代は15歳頃から命婦として宮中に仕えたと言われ、708年(和銅元年)に第43代・元明天皇から橘宿禰姓を賜り、717年(養老元年)に従三位に叙され、721年(養老5年)に正三位に叙せられ、宮人としての最高位になりました。721年(養老5年)に元明上皇の病気平癒を祈願して仏門に入ったと言われています。県犬養三千代は美努王に嫁ぎ、葛城王(橘諸兄)・佐為王(橘佐為)・牟漏女王を産みました。その後美努王に離別し、藤原不比等の後妻になり、安宿媛(第45代・聖武天皇の后・光明皇后)・多比能を産みました。県犬養三千代は第42代・文武天皇、第45代・聖武天皇の養育にあたり、夫・藤原不比等とともに権勢を振るいました。藤原氏の繁栄の基礎を築きました。なお県犬養三千代は733年(天平5年)2月4日に亡くなりました。

【梅宮大社歴史-修学旅行・観光ガイド 備考】
*参考・・・梅宮大社(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ

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