法観寺の歴史-修学旅行・観光の簡単解説(聖徳太子

八坂の塔(Hokan-ji Temple)

法観寺の歴史を時代別年表にまとめ

法観寺の歴史を簡単にまとめています。法観寺は592年(崇峻天皇5年)に聖徳太子が如意輪観音の夢告により、五重塔を建立して仏舎利を三粒を納めたのが起源です。渡来氏族・八坂氏の氏寺として創建されたとも言われています。(時代別年表・重要人物下記参照)

法観寺見どころ

【法観寺が建立されている場所一帯】

●法観寺が建立されている場所一帯は渡来氏族(とらいしぞく)・八坂造(やさかのみやつこ)の一族が住した場所とも言われています。

【法観寺の起源・始まり】

●法観寺は伝承によると592年(崇峻天皇5年)に第31代・用明天皇(ようめいてんのう)の第2皇子・聖徳太子(しょうとくたいし)が如意輪観音(にょいりんかんのん)の夢告により、五重塔を建立して仏教の開祖・お釈迦さま(おしゃかさまの)の遺骨・仏舎利(ぶっしゃり)を三粒を納めたのが起源とも言われています。如意輪観音は観音菩薩の変化身(へんげしん)で、千手観音(せんじゅかんのん)・聖観音(しょうかんのん)・十一面観音(じゅういちめんかんのん)・馬頭観音(ばとうかんのん)・准胝観音(じゅんでいかんのん)または不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん)とともに六観音に数えられています。如意輪観音は霊験を表す如意宝珠(にょいほうじゅ)と法輪(ほうりん)の力により、一切の願望を満たし、生きとし生けるものを救済します。
●法観寺は794年(延暦13年)の第50代・桓武天皇(かんむてんのう)による平安京遷都(へいあんきょうせんと)前に渡来氏族・八坂氏の氏寺として創建されていたとも言われています。
●法観寺は境内から出土した瓦から飛鳥時代(710年~794年)の7世紀には既に創建されていたとも言われています。当初、八坂寺(やさかでら)と称され、「続日本後紀(しょくにほんこうき)」の承和4年(837年)条に記されたのが文献上の初見です。

【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】

●平安時代中期に「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)・927年(延長5年)編纂」によると大膳職から盂蘭盆(うらぼん)供養料を給される七寺に数えられました。
●1179年(治承三年)に清水寺(きよみずでら)と八坂神社(やさかじんじゃ)の争いによって五重塔が焼失しました。

【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】

●1191年(建久2年)に鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(みなもとのよりとも)の援助によって五重塔が再建されました。
●1240年(仁治元年)に建仁寺(けんにんじ)8世・済翁証救が再興し、真言宗(しんごんしゅう)から臨済宗(りんざいしゅう)建仁寺派の禅寺に改めました。
●1291年(正応4年)に落雷によって五重塔が焼失しました。
●1309年(延慶2年)に第91代・後宇多天皇(ごうだてんのう)の援助によって五重塔が再建されました。

【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の歴史・出来事】

●1338年(延元3年・暦応元年)に室町幕府初代将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)が夢窓国師(むそうこくし)・夢窓疎石(むそうそせき)の勧めにより、全国に安国寺(あんこくじ)・利生塔(りしょうとう)を建立した際、都の利生塔として仏舎利が奉納されました。

【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】

●1436年(永享8年)に五重塔が焼失しました。
●1440年(永享12年)に室町幕府6代将軍・足利義教(あしかがよしのり)が現在の五重塔を再建しました。

【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】

●安土桃山時代に大島光義が関白・豊臣秀次(とよとみひでつぐ)の命により、五重塔の窓に矢を10本射込んだと言われています。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】

●江戸時代前期に京都所司代・板倉勝重(いたくらかつしげ)が五重塔を修理し、米を寄進したとも言われています。

【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】

●1997年(平成9年)に発掘調査が行われ、境内から古墳時代(3世紀中頃~7世紀頃)の土器・焼土などが確認されました。
●2009年(平成21年)に防災工事に伴う発掘調査が行われ、白鳳時代(645年~710年)のせん仏(せんぶつ)・平安時代(794年~1185年)の排水溝跡などが確認されました。

【法観寺の開基である聖徳太子】

聖徳太子は574年(敏達天皇3年)に第31代・用明天皇と第29代・欽明天皇の第3皇女で、皇后・穴穂部間人の第2皇子として生まれました。幼少時から聡明で、仏法を尊んだと言われています。585年(用明天皇元年)に第30代・敏達天皇が崩御すると父・橘豊日皇子(第31代・用明天皇)が即位したが、 587年(用明天皇2年)に崩御しました。593年(崇峻天皇5年)に叔母で、史上初の女帝である第33代・推古天皇が即位すると皇太子・摂政になって補佐しました。聖徳太子は内政・外交などの政治に尽力し、603年(推古天皇11年)に冠位十二階、604年(推古天皇12年)に十七条憲法を制定したり、607年(推古天皇15年)に遣隋使を派遣したりしました。また仏教に深く帰依し、聖徳太子建立七大寺(法隆寺(斑鳩寺)・広隆寺(蜂丘寺)・法起寺(池後寺)・四天王寺・中宮寺・橘寺・葛木寺)を創建したり、「三経義疏」を著したりして仏教の振興に尽くしました。聖徳太子は622年(推古天皇30年)に亡くなりました。

【法観寺の歴史 備考】
*参考・・・法観寺・八坂の塔(歴史・見どころ・・・)

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