二条城の歴史は徳川家康が二の丸御殿を完成させたのが起源
二条城の時代別年表と重要人物
二条城は1601年(慶長6年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康が御所の守護と将軍の宿泊所として築城を開始し、1603年(慶長8年)に二の丸御殿が完成したのが起源です。1606年(慶長11年)に天守が完成しました。なお歴史は修学旅行・観光の為に簡単にマトメています。
【二条城が築城されている場所】
- 二条城が築城されている場所は平安京(へいあんきょう)の禁苑(きんえん・宮中の庭)だった神泉苑(しんせんえん)の一部で、内裏(だいり)も造営されていました。784年(延暦3年)に奈良・平城京(へいじょうきょう)から長岡京(ながおかきょう)に遷都したが、藤原種継(ふじわらのたねつぐ)の暗殺事件が起こり、平安京への再遷都の要因になりました。792年(延暦11年)1月・5月に第50代・桓武天皇(かんむてんのう)が遷都前に候補地であった平安京を視察し、翌793年(延暦12年)に藤原小黒麻呂・紀古佐美らが派遣され、同年1月に和気清麻呂(わかのきよまろ)の建議もあり、桓武天皇が平安京遷都を決定し、794年(延暦13年)10月22日に長岡京から平安京に遷都しました。
【二条城の起源・始まり】
- 二条城は1601年(慶長6年)5月に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)が天皇の住居である京都御所の守護と将軍の宿泊所として築城を開始したのが起源です。京都所司代・板倉勝重(いたくらかつしげ)が造営総奉行、大工棟梁・中井正清(なかいまさきよ)が作事になり、西国諸大名に費用と労務を割り当てました。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)前期の歴史・出来事】
- 1602年(慶長7年)5月に御殿・天守の造営が着工され、1603年(慶長8年)3月に二の丸御殿が完成し、1606年(慶長11年)に天守が完成しました。徳川家康は1603年(慶長8年)2月12日に伏見城で将軍宣下(征夷大将軍補任の宣旨)を受け、同年3月12日に二条城に入城し、同月25日に御所で拝賀の礼が行われ、同月27日に重臣・公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀が行われました。
- 1605年(慶長10年)に江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)、1623年(元和9年)に江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)が徳川家康と同じように二条城に入城して拝賀の礼を行ったが、江戸幕府4代将軍・徳川家綱(とくがわいえつな)以降は行われなくなりました。
- 1611年(慶長16年)に徳川家康が関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の子・豊臣秀頼(とよとみひでより)と二の丸御殿で会見しました。その際豊臣氏を滅ぼす決意をしたとも言われています。
- 1614年(慶長19年)の大坂冬の陣と1615年(元和元年)の大坂夏の陣では幕府軍が二条城で軍議を開いて出陣しました。
- 1619年(元和5年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康の内孫で、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の五女・徳川和子(とくがわまさこ)が第108代・後水尾天皇(ごみずのおてんのう)に入内する為に二条城の改築が行われました。
- 1620年(元和6年)に徳川和子が二条城から入内しました。
- 1624年(寛永元年)に徳川家光が第108代・後水尾天皇の二条城行幸の為に大規模な改修・増築を行い、本丸・二の丸・天守が完成しました。絵師・狩野探幽(かのうたんゆう)が描いた障壁画などが飾られました。なお行幸御殿も造営され、行幸後に移築されました。
- 1625年(寛永2年)に将軍不在時に江戸から派遣された武士が二条城代・二条在番になって警備しました。ただ1699年(元禄12年)に二条城代が廃止されました。
- 1626年(寛永3年)に徳川秀忠・徳川家光が上洛し、第108代・後水尾天皇と中宮・和子が二条城に行幸し、5日間滞在しました。能・和歌・蹴鞠などの会が催されました。
- 1634年(寛永11年)に徳川家光が約30万7千人と言われる大軍を率いて二条城に入城しました。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)中期・後期の歴史・出来事】
- 1750年(寛延3年)8月に雷火によって五層の天守が焼失しました。
- 1788年(天明8年)1月に天明の大火によって本丸などが焼失しました。
- 1860年(万延元年)に京都地震によって御殿などが被害を受けました。
- 1863年(文久3年)に江戸幕府14代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)が1634年(寛永11年)の徳川家光入城以来、約230年振りに二条城に入城しました。
- 1866年(慶応2年)に江戸幕府15代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が入城して将軍拝命の宣旨を受け、15代将軍になりました。
- 1867年(慶応3年)に徳川慶喜は二の丸御殿・大広間に在京諸藩の重臣を集め、大政奉還(たいせいほうかん)の意思を発表しました。同年10月13日に在京諸藩の重臣から意見を聞き、同月14日に徳川慶喜が政権を朝廷に返上することを申し出て、同月15日に朝廷が許可しました。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
- 1868年(明治元年)に太政官代が二条城に置かれ、1871年(明治4年)に二の丸御殿内に府庁が置かれました。
- 1884年(明治17年)に二条城が皇室の別邸・二条離宮になりました。
- 1915年(大正4年)に第123代・大正天皇(たいしょうてんのう)の即位の儀式が京都御所の紫宸殿で行われ、その後二条城に造営された大饗宴場で饗宴が開かれました。
- 1939年(昭和14年)に二条離宮が京都市に下賜され、1940年(昭和15年)2月11日から恩賜元離宮二条城として一般公開が開始されました。
- 1940年(昭和15年)2月11日から一般公開が開始されました。
- 1952年(昭和27年)に二の丸御殿6棟が国宝、東大手門など22棟が国の重要文化財に指定されました。
- 1953年(昭和28年)に二の丸庭園が特別名勝に指定されました。
- 1994年(平成6年)に二条城はユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」に登録されました。
【二条城を築城した江戸幕府初代将軍・徳川家康】
徳川家康は1543年(天文11年)に三河国額田郡岡崎城主・松平広忠と於大の方の長男として生まれました。幼少期に織田氏・今川氏の人質として過ごし、1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を討つと岡崎に戻り、織田信長と同盟を結んで勢力を拡大しました。1582年(天正10年)の本能寺の変で織田信長が自刀するとは関白・豊臣秀吉と対立するが、その後和睦して豊臣秀吉の天下統一に協力し、豊臣政権の五大老筆頭になりました。1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が亡くなり、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで西軍に勝利し、1603年(慶長8年)に江戸幕府初代将軍になりました。1605年(慶長10年)に徳川秀忠に将軍職を譲って大御所になり、1615年(慶長20年)に大坂の陣で豊臣氏を滅亡させました。なお徳川家康は1616年(元和2年)に亡くなりました。
【二条城 備考】
*参考・・・二条城(歴史・見どころ・・・)ホームページ