野宮神社の歴史-修学旅行・観光の簡単解説(仁子内親王

野宮神社見どころ

野宮神社の歴史を時代別年表にまとめ

野宮神社の歴史を簡単にまとめています。野宮神社は810年(大同5年)頃に斎王になった仁子内親王の為に野宮が設けられたのが起源です。仁子内親王は809年(大同4年)に斎王に卜定され、811年(弘仁2年)に伊勢神宮に向かいました。(時代別年表・重要人物下記参照)

野宮神社見どころ

【伊勢神宮・斎王】

●伊勢神宮(いせじんぐう)は紀元前73年(垂仁天皇25年)に天照大御神(あまてらすおおみかみ)が内宮に祀られたのが起源と言われています。天照大御神は皇孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)以来、天皇の近くで祀られていたが、第10代・崇神天皇(すじんてんのう)が御殿をともにすることを恐れ、皇居外に祀ることを決意しました。紀元前92年(崇神天皇6年)に初代斎王(さいおう・斎宮(さいぐうう))とされる皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が大和(奈良)笠縫邑(かさぬいむら)に神籬(ひもろぎ)を立てて祀りました。御殿では天照大御神とともに倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)も祀られていたが、倭大国魂神も皇居外で祀られることになり、皇女・渟名城入姫命(ぬなきいりびめのみこと)が大和郷市磯邑(いちしのむら)で祀りました。その後豊鍬入姫命と交代した第2代斎王(斎宮)とされる皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)が永遠に神事を続けることができる場所を求め、大和(奈良)から伊賀(滋賀)・近江(滋賀)・美濃(岐阜)などのを巡って伊勢(三重)に入り、宮川(みやがわ)水系の一級河川・五十鈴川(いすずがわ)の川上に宮を建てて祀りました。
●天皇の代理で、伊勢神宮に仕える斎王(斎宮)は未婚の皇女・女王から選ばれ、宮中の初斎院(しょさいいん)で1年間、野宮で1年間身を清め、伊勢神宮に向かいました。野宮の場所は天皇の即位ごとに定められ、毎回違っていました。野宮は清浄な地が選ばれ、平安時代以降は主に嵯峨野(嵐山)が選ばれるようになり、殿舎が一時的に造営され、斎王(斎宮)一代で取り壊されました。初代斎王・豊鍬入姫命、第2代斎王・倭姫命に続き、五百野皇女(いおの)・伊和志真皇女(いわしま)・栲幡姫皇女・荳角皇女(ささげ)・磐隈皇女(いわくま)・菟道皇女(うじ)・酢香手姫皇女(すかてひめ)が斎王(斎宮)を務めました。飛鳥時代には大来皇女(おおく)・託基皇女(たき)・泉皇女(いずみ)・田形皇女(たかた)・多紀内親王(たき)が斎王(斎宮)を務めました。奈良時代には智努女王(ちぬ)・円方女王(まどかた)・久勢女王(くせ)・井上内親王(いのうえ)・県女王(あがた)・小宅女王(おやけ)・安倍内親王(あべ)・酒人内親王(さかひと)・浄庭女王(きよにわ)が斎王(斎宮)を務めました。平安時代初期には朝原内親王(あさはら)・布勢内親王(ふせ)・大原内親王(おおはら)が斎王(斎宮)を務めました。

●野宮神社は810年(大同5年)頃に斎王(斎宮)になった第52代・嵯峨天皇(さがてんのう)の第10皇女・仁子内親王(じんしないしんのう)の為に野宮が設けられたのが起源と言われています。仁子内親王は809年(大同4年)8月11日に斎王(斎宮)に卜定され、811年(弘仁2年)9月4日に伊勢神宮に向かいました。なお野宮は紫式部(むらさきしきぶ)作の「源氏物語(げんじものがたり)」の「賢木の巻」に描かれています。前東宮と六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ)の間に生まれた姫宮(秋好中宮)が斎王(斎宮)になり、姫宮に六条御息所が同道し、野宮が光源氏との別れの舞台になりました。

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【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】

●平安時代には氏子(うじこ)内親王、宜子(よしこ)女王、久子(ひさこ)内親王、晏子(やすこ)内親王、恬子(やすこ)内親王、識子(さとこ)内親王、掲子(ながこ)内親王、繁子(しげこ)内親王、元子(もとこ)女王、柔子(やすこ)内親王、雅子(まさこ)内親王、斉子(きよこ)内親王、徽子(よしこ)女王、英子(はなこ)内親王、悦子(よしこ)女王、楽子(やすこ)内親王、輔子(すけこ)内親王、隆子(たかこ)女王、規子内親王(のりこ)、済子女王(なりこ)、恭子女王(たかこ)、当子内親王(まさこ)、よし子女王(よしこ)、良子(ながこ)内親王、嘉子(よしこ)内親王、敬子(たかこ)女王、俊子(としこ)内親王、淳子(あつこ)女王、やす子(やすこ)内親王、善子(よしこ)内親王、恂子(あいこ)内親王、守子(もりこ)女王、妍子(よしこ)内親王、喜子(よしこ)内親王、亮子(あきこ)内親王、好子(よしこ)内親王、休子(のぶこ)内親王、惇子(あつこ)内親王、功子(いさこ)内親王が斎王(斎宮)を務めました。なお平安時代末期になると源平の合戦(治承・寿永の乱)により、斎王(斎宮)は一時途絶えました。なお葵祭(上賀茂神社・下鴨神社)に仕えていた賀茂斎王(賀茂斎院)は鎌倉時代前期の1221年(承久3年)に起こった承久の乱によって廃絶しました。

【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】

●鎌倉時代には潔子(きよこ)内親王、粛子(すみこ)内親王、ひろ子(ひろこ)内親王、利子(としこ)内親王、昱子(てるこ)内親王、曦子(あきこ)内親王、愷子(やすこ)内親王、弉子(まさこ)内親王、懽子(よしこ)内親王、祥子(さちこ)内親王が斎王(斎宮)を務めました。鎌倉時代後半になると斎王(斎宮)の卜定が途絶えがちになりました。

【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の歴史・出来事】

●南北朝時代の延元年間(1336年~1340年)に延元の乱が起こり、南朝初代で、第96代・後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の第2皇女・祥子内親王(さちこ)を最後に斎王制度が廃絶になりました。祥子内親王は1333年(元弘3年・正慶2年)に斎王(斎宮)に卜定されたが、1334年(建武元年)に伊勢神宮に向かわずに野宮で退下したと言われています。なお野宮は野宮神社として存続し、勅祭が行われるようになったが、その後衰微したと言われています。

【戦国時代(1493年頃~1590年頃)の歴史・出来事】

●戦国時代に第105代・後奈良天皇(ごならてんのう)から大覚寺宮に綸旨が下されたと言われています。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】

●江戸時代中期に第114代・中御門天皇(なかみかどてんのう)から大覚寺宮に綸旨が下されたと言われています。

【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】

●1873年(明治6年)に村社に列せられました。
●1994年(平成6年)に秋篠宮殿下が参拝しました。
●1999年(平成11年)に斎宮行列が約600年振りに復活しました。

【野宮神社ゆかりの仁子内親王】

仁子内親王は平安時代前期に第52代・嵯峨天皇と女御・大原浄子の間に生まれました。生年は不詳だが、806年(延暦25年)に嵯峨天皇が皇太弟になった時代に生まれたとも言われています。809年(大同4年)に父が兄である第51代・平城天皇から譲位されて嵯峨天皇に即位すると同年8月11日に斎王(斎宮)に卜定され、811年(弘仁2年)9月4日に伊勢神宮に向かいました。823年(弘仁14年)に父・嵯峨天皇が第53代・淳和天皇に譲位すると斎宮(斎王)を在任14年で退下しました。なお仁子内親王は889年(寛平元年)1月24日に亡くなりました。

【野宮神社の歴史 備考】
*参考・・・京都・野宮神社(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ

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