野宮神社の歴史は仁子内親王の為に野宮が設けられたのが起源
野宮神社の時代別年表と重要人物
野宮神社は810年(大同5年)頃に斎王になった嵯峨天皇の皇女・仁子内親王の為に野宮が設けられたのが起源です。南北朝時代に祥子内親王を最後に斎王制度が廃絶になり、野宮は野宮神社として存続するようになりました。なお歴史は修学旅行・観光の為に簡単にマトメています。
【伊勢神宮・斎王】
- 伊勢神宮(いせじんぐう)は紀元前73年(垂仁天皇25年)に天照大御神(あまてらすおおみかみ)が内宮に祀られたのが起源と言われています。天照大御神は皇孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)以来、天皇の近くで祀られていたが、第10代・崇神天皇(すじんてんのう)が御殿をともにすることを恐れ、皇居外に祀ることを決意しました。紀元前92年(崇神天皇6年)に初代斎王(さいおう・斎宮(さいぐうう))とされる皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が大和(奈良)笠縫邑(かさぬいむら)に神籬(ひもろぎ)を立てて祀りました。御殿では天照大御神とともに倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)も祀られていたが、倭大国魂神も皇居外で祀られることになり、皇女・渟名城入姫命(ぬなきいりびめのみこと)が大和郷市磯邑(いちしのむら)で祀りました。その後豊鍬入姫命と交代した第2代斎王(斎宮)とされる皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)が永遠に神事を続けることができる場所を求め、大和(奈良)から伊賀(滋賀)・近江(滋賀)・美濃(岐阜)などのを巡って伊勢(三重)に入り、宮川(みやがわ)水系の一級河川・五十鈴川(いすずがわ)の川上に宮を建てて祀りました。
- 天皇の代理で、伊勢神宮に仕える斎王(斎宮)は未婚の皇女・女王から選ばれ、宮中の初斎院(しょさいいん)で1年間、野宮で1年間身を清め、伊勢神宮に向かいました。野宮の場所は天皇の即位ごとに定められ、毎回違っていました。野宮は清浄な地が選ばれ、平安時代以降は主に嵯峨野(嵐山)が選ばれるようになり、殿舎が一時的に造営され、斎王(斎宮)一代で取り壊されました。初代斎王・豊鍬入姫命、第2代斎王・倭姫命に続き、五百野皇女(いおの)・伊和志真皇女(いわしま)・栲幡姫皇女・荳角皇女(ささげ)・磐隈皇女(いわくま)・菟道皇女(うじ)・酢香手姫皇女(すかてひめ)が斎王(斎宮)を務めました。飛鳥時代には大来皇女(おおく)・託基皇女(たき)・泉皇女(いずみ)・田形皇女(たかた)・多紀内親王(たき)が斎王(斎宮)を務めました。奈良時代には智努女王(ちぬ)・円方女王(まどかた)・久勢女王(くせ)・井上内親王(いのうえ)・県女王(あがた)・小宅女王(おやけ)・安倍内親王(あべ)・酒人内親王(さかひと)・浄庭女王(きよにわ)が斎王(斎宮)を務めました。平安時代初期には朝原内親王(あさはら)・布勢内親王(ふせ)・大原内親王(おおはら)が斎王(斎宮)を務めました。
- 野宮神社は810年(大同5年)頃に斎王(斎宮)になった第52代・嵯峨天皇(さがてんのう)の第10皇女・仁子内親王(じんしないしんのう)の為に野宮が設けられたのが起源と言われています。仁子内親王は809年(大同4年)8月11日に斎王(斎宮)に卜定され、811年(弘仁2年)9月4日に伊勢神宮に向かいました。なお野宮は紫式部(むらさきしきぶ)作の「源氏物語(げんじものがたり)」の「賢木の巻」に描かれています。前東宮と六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ)の間に生まれた姫宮(秋好中宮)が斎王(斎宮)になり、姫宮に六条御息所が同道し、野宮が光源氏との別れの舞台になりました。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の出来事】
- 平安時代には氏子内親王(うじこ)・宜子女王(よしこ)・久子内親王(ひさこ)・晏子内親王(やすこ)・恬子内親王(やすこ)・識子内親王(さとこ)・掲子内親王(ながこ)・繁子内親王(しげこ)・元子女王(もとこ)・柔子内親王(やすこ)・雅子内親王(まさこ)・斉子内親王(きよこ)・徽子女王(よしこ)・英子内親王(はなこ)・悦子女王(よしこ)・楽子内親王(やすこ)・輔子内親王(すけこ)・隆子女王(たかこ)・規子内親王(のりこ)・済子女王(なりこ)・恭子女王(たかこ)・当子内親王(まさこ)・よし子女王(よしこ)・良子内親王(ながこ)・嘉子内親王(よしこ)・敬子女王(たかこ)・俊子内親王(としこ)・淳子女王(あつこ)・やす子内親王(やすこ)・善子内親王(よしこ)・恂子内親王(あいこ)・守子女王(もりこ)・妍子内親王(よしこ)・喜子内親王(よしこ)・亮子内親王(あきこ)・好子内親王(よしこ)・休子内親王(のぶこ)・惇子内親王(あつこ)・功子内親王(いさこ)が斎王(斎宮)を務めました。なお平安時代末期になると源平の合戦(治承・寿永の乱)により、斎王(斎宮)は一時途絶えました。なお葵祭(上賀茂神社・下鴨神社)に仕えていた賀茂斎王(賀茂斎院)は鎌倉時代前期の1221年(承久3年)に起こった承久の乱によって廃絶しました。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の出来事】
- 鎌倉時代には潔子内親王(きよこ)・粛子内親王(すみこ)・ひろ子内親王(ひろこ)・利子内親王(としこ)・昱子内親王(てるこ)・曦子内親王(あきこ)・愷子内親王(やすこ)・弉子内親王(まさこ)・懽子内親王(よしこ)・祥子内親王(さちこ)が斎王(斎宮)を務めました。鎌倉時代後半になると斎王(斎宮)の卜定が途絶えがちになりました。
【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の出来事】
- 南北朝時代の延元年間(1336年~1340年)に延元の乱が起こり、南朝初代で、第96代・後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の第2皇女・祥子内親王(さちこ)を最後に斎王制度が廃絶になりました。祥子内親王は1333年(元弘3年・正慶2年)に斎王(斎宮)に卜定されたが、1334年(建武元年)に伊勢神宮に向かわずに野宮で退下したと言われています。なお野宮は野宮神社として存続し、勅祭が行われるようになったが、その後衰微したと言われています。
【戦国時代(1493年頃~1590年頃)の出来事】
- 戦国時代に第105代・後奈良天皇(ごならてんのう)から大覚寺宮に綸旨が下されたと言われています。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の出来事】
- 江戸時代中期に第114代・中御門天皇(なかみかどてんのう)から大覚寺宮に綸旨が下されたと言われています。
【明治時代以降(1868年頃~)の出来事】
- 1873年(明治6年)に村社に列せられました。
- 1994年(平成6年)に秋篠宮殿下が参拝しました。
- 1999年(平成11年)に斎宮行列が約600年振りに復活しました。
【野宮神社に野宮が設けられた際の斎王である仁子内親王】
仁子内親王は平安時代前期に第52代・嵯峨天皇と女御・大原浄子の間に生まれました。生年は不詳だが、806年(延暦25年)に嵯峨天皇が皇太弟になった時代に生まれたとも言われています。809年(大同4年)に父が兄である第51代・平城天皇から譲位されて嵯峨天皇に即位すると同年8月11日に斎王(斎宮)に卜定され、811年(弘仁2年)9月4日に伊勢神宮に向かいました。823年(弘仁14年)に父・嵯峨天皇が第53代・淳和天皇に譲位すると斎宮(斎王)を在任14年で退下しました。なお仁子内親王は889年(寛平元年)1月24日に亡くなりました。
【野宮神社 備考】
*参考・・・京都・野宮神社(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ