聖護院の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

聖護院(Shogo-in Temple)

聖護院の歴史を時代別年表にまとめ

聖護院の歴史を簡単にまとめています。聖護院は1090年(寛治4年)に白河上皇が熊野に御幸した際、先達を勤めた功により、増誉大僧正が役行者が創建した常光寺を賜り、「聖体護持」から寺号を聖護院に改めたのが起源です。(時代別年表・重要人物下記参照)

聖護院見どころ

【聖護院が祀られている場所一帯】

  • 聖護院が祀られている場所一帯はかつて鬱蒼とした聖護院の森が広がっていたと言われています。聖護院の森は紅葉が錦の織物の様に美しかったことから「錦林」とも言われ、「聖護院」とともに現在も地名が残されています。また聖護院の森には御殿が造営され、「森御殿」とも言われていました。なお聖護院の森では鎮守として、平安時代初期の811年(弘仁2年)に修験道(しゅげんどう)の祖である役行者(えんのぎょうじゃ)・役小角(えんのおづぬ)の十世僧・日円上人(にちえんしょうにん・日圓上人)が紀州・熊野権現(くまのごんげん)を勧請し、熊野神社(くまのじんじゃ)を創建しました。熊野神社は熊野若王子神社(くまのにゃくおうじじんじゃ)・新熊野神社(いまくまのじんじゃ)とともに京の熊野三山に数えられました。

【聖護院の起源・始まり】

  • 聖護院は平安時代後期の1090年(寛治4年)に白河上皇(第72代・白河天皇(しらかわてんのう))が熊野三山を参詣する熊野に御幸した際、先達(せんだつ)を勤めた功により、増誉大僧正(ぞうよだいそうじょう)が役行者・役小角が創建したとも言われる寺院・常光寺を賜り、「聖体護持」の二字から寺号を聖護院に改め、熊野神社を鎮守社としたのが起源と言われています。増誉大僧正は熊野那智の滝(なちのたき)に一千日篭居し、その後奈良・大峰修行を行った第5代天台座主(てんだいざす)で、天台寺門宗(てんだいじもんしゅう)の宗祖である智証大師(ちしょうだいし)・円珍(えんちん)の後を継ぎ、大峰修行を行って修験僧として名をはせました。増誉大僧正は初代・熊野三山検校職(くまのさんざんけんぎょう)に任命され、熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)・熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)・熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)を統轄しました。また本山派修験道の管領にも任命され、全国の修験者も統括しました。聖護院は最盛期に全国2万余の末寺を有する一大修験集団に発展しました。上皇の熊野御幸の際、代々聖護院が大先達が勤め、 「伊勢へ七たび 熊野へ三たび 愛宕まいりは月まいり」と言われるほど熊野詣が盛んになり、愛宕山(あたごさん)も修験道の行場として栄えました。
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【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】

  • 1202年(建仁2年)に第77代・後白河天皇の皇子・静恵法親王(じょうえほっしんのう)が聖護院に宮門跡として入寺し、門跡寺院になりました。

【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の歴史・出来事】

  • 1390年(元中7年・明徳元年)に覚誉法親王(かくよほうしんのう)の後継者に指名された覚増法親王(かくぞうほうしんのう)が急死し、聖護院は一時断絶の危機に見舞われました。南北朝や北朝内部の対立が背景にあったと言われています。

【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】

  • 室町時代中期に応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))が起こり、聖護院が焼失しました。応仁の乱では門跡・道興(どうこう)が室町幕府第6代将軍・足利義教(あしかがよしのり)の弟・足利義視(あしかがよしみ)との親交から山名宗全(やまなそうぜん)を総大将とする西軍への内通が疑われて美濃に亡命したが、応仁の乱後に赦免され、門跡・道興が洛北・長谷(京都市左京区岩倉長谷町)に移って聖護院を再興しました。
  • 1487年(文明19年)4月に長谷の仏堂が盗賊の放火で焼失しました。

【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】

  • 桃山時代に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命により、聖護院が烏丸今出川に移りました。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】

  • 1675年(延宝3年)に延宝の大火で延焼し、翌1676年(延宝4年)に聖護院が現在の場所である旧地に戻りました。
  • 1788年(天明8年)の天明の大火の際、第119代・光格天皇(こうかくてんのう)が聖護院の宸殿に入り、仮御所になりました。門跡・盈仁法親王は光格天皇と同母弟です。
  • 1854年(安政元年)の御所・内裏炎上に際、聖護院が第121代・孝明天皇(こうめいてんのう)の一時的な仮宮になりました。

【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】

  • 1868年(慶応4年)1月8日に門跡・雄仁法親王(ゆうにんほうしんのう)が還俗し、聖護院宮嘉言親王(しょうごいんのみやよしことしんのう)になりました。
  • 1868年(明治元年)に神仏分離令が発せられ、1872年(明治5年)に修験道廃止令が発せられると聖護院が天台寺門宗に属するようになりました。
  • 1946年(昭和21年)に聖護院が天台寺門宗から独立し、修験宗を設立しました。

【聖護院の開山とされる増誉大僧正】

増誉大僧正は平安時代中期の1032年(長元5年)に権大納言・藤原経輔の子として生まれました。6歳の時に近江・園城寺(三井寺)の行円のもとで出家し、1069年(延久元年)に錦織寺の行観から阿闍梨位灌頂を受け、その後奈良の大峰山・葛城山で修行しました。第72代・白河天皇、第73代・堀河天皇の護持僧を勤め、1086年(応徳3年)に権大僧都になりました。1090年(寛治4年)に白河上皇が熊野三山を参詣した際に先達を勤め、その後熊野三山検校職・本山派修験道の管領に任じられました。1100年(康和2年)に園城寺長吏になり、1105年(長治2年)に第39世天台座主になったが、山門派の反対で翌日辞退し、その後大僧正になりました。なお増誉大僧正は1116年(永久4年)に亡くなりました。

【聖護院 備考】
*参考・・・聖護院(歴史・見どころ・・・)ホームページ

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