京都御所の歴史は里内裏として造営された土御門東洞院殿が起源
京都御所の時代別年表と重要人物
京都御所は794年(延暦13年)の平安京遷都の際、臨時の里内裏の一つとして造営された土御門東洞院殿が起源です。1331年(元徳3年)に光厳天皇が即位すると土御門東洞院殿を居所と定めて、北朝の内裏に定着しました。なお歴史は修学旅行・観光の為に簡単にマトメています。
【奈良時代(710年頃~794年頃)の出来事】
- 784年(延暦3年)に奈良・平城京(へいじょうきょう)から京都・長岡京(ながおかきょう)に遷都したが、造長岡宮使長官・藤原種継(ふじわらのたねつぐ)の暗殺事件が起こり、平安京への再遷都が検討されました。792年(延暦11年)1月・5月に第50代・桓武天皇(かんむてんのう)が遷都前に候補地であった平安京を視察し、翌793年(延暦12年)に藤原小黒麻呂・紀古佐美らが派遣され、同年1月に和気清麻呂(わかのきよまろ)の建議もあり、桓武天皇が平安京遷都を決定し、794年(延暦13年)10月22日に長岡京から平安京に遷都しました。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の出来事】
- 京都御所の前身である土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)は平安京遷都の際、内裏(だいり)に代わる臨時の里内裏(さとだいり)の一つとして造営されました。土御門東洞院殿は平安京左京北辺四坊二町に位置し、北側を正親町通、南側を土御門通、東側を高倉通、西側を東洞院通に囲まれ、正親町殿とも言われていました。なお平安京遷都時の内裏は千本通(せんぼんどおり・朱雀大路(すざくおおじ))沿いに造営されていたが、失火や政変による火災によって度々焼失し、鎌倉時代前期の1227年(安貞元年)に火災でほぼ焼失したとも言われ、その後再建されることはありませんでした。
- 平安時代後期に第73代・堀河天皇(ほりかわてんのう)が即位前に御所としました。
- 1133年(長承2年)に藤原忠実の娘・藤原泰子が鳥羽上皇(第74代・鳥羽天皇(とぼてんのう))に入内する際、御所として修造されました。1140年(保延6年)に藤原泰子が女院・高陽院になると正式にその御所になり、土御門殿・正親町殿と言われました。なお高陽院の死後に藤原邦綱の邸宅になりました。
- 1167年(仁安2年)に第79代・六条天皇(ろくじょうてんのう)が里内裏として使用しました。
- 1177年(安元3年)に第80代・高倉天皇(たかくらてんのう)が里内裏として使用しました。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の出来事】
- 1191年(建久2年)から後白河法皇(第77代・後白河天皇(ごしらかわてんのう)の皇女・宣陽門院(覲子内親王)の所有になりました。ただ宣陽門院は父・後白河法皇ゆかりの六条殿を愛し、近衛家が時々借り受けて儀式に使用しました。
- 1208年(承元2年)に六条殿が焼失すると宣陽門院は御所を土御門東洞院殿に移しました。土御門東洞院殿には後白河法皇の持仏堂・長講堂(ちょうこどう)も移されたが、その後六条殿跡に長講堂が再建されたが、再建後も一部の仏事が行われ、新長講堂と言われました。
- 1252年(建長4年)の宣陽門院の死後に第89代・後深草天皇(ごふかくさてんのう)の所有になり、一部が陽徳門院に与えられたが、持明院統(じみょういんとう)の所有になりました。
【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の出来事】
- 1331年(元弘元年・元徳3年)に南朝初代で、第96代・後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が京都を逃れ、北朝初代・光厳天皇(こうごんてんのう)が天皇に即位すると土御門東洞院殿が北朝の御所に定着したと言われています。ただ土御門東洞院殿は紫宸殿(ししんでん)と清涼殿(せいりょうでん)を兼用するような小規模な御所だったと言われています。
- 1336年(延元元年・建武3年)に二条富小路殿にあった持明院統の御所が焼失すると土御門東洞院殿が北朝の御所になりました。
【正式な御所成立】
- 京都御所は1392年(元中9年・明徳3年)に南北朝が合一(ごういつ)すると土御門東洞院殿が正式な御所になりました。その後御所は他所へ移ることなく、皇居に定まりました。なお大覚寺(だいかくじ)正寝殿で南北朝媾和が成立し、南朝第4代で、第99代・後亀山天皇(ごかめやまてんのう)から北朝第6代で、第100代・後小松天皇(ごこまつてんのう)に三種の神器(さんしゅのじんぎ)が引き渡されました。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の出来事】
- 1401年(応永8年)に御所が火災で焼失しました。その後室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)が再建する際に新長講堂を土御門油小路に移転させ、御所を再建しました。
- 1443年(嘉吉3年)に御所が火災で焼失しました。
- 室町時代中期に応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))が起こって荒廃したと言われています。
【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の出来事】
- 1569年(永禄12年)に織田信長(おだのぶながが)が復興に着手しました。
- 安土桃山時代に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が天正内裏を造営しました。また御所内に公家屋敷を移しました。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の出来事】
- 1613年(慶長18年)・1642年(寛永19年)・1655年(承応4年)・1662年(寛文2年)・1675年(延宝3年)・1709年(宝永6年)・1790年(寛政2年)・1855年(安政2年)に内裏が再建されました。1613年(慶長18年)・1642年(寛永19年)の再建では旧殿を取り壊して建て替えられました。
- 1866年(慶応2年)に敷地面積が確定しました。
【明治時代以降(1868年頃~)の出来事】
- 1869年(明治2年)の東京遷都によって公家町が荒廃しました。
- 1877年(明治10年)から1883年(明治16年)に京都府による大内保存事業(おおうちほぞんじぎょう)が行われました。
- 1915年(大正4年)の第123代・大正天皇(たいしょうてんのう)即位大礼の際に大改修が行われました。
- 1945年(昭和20年)に建物疎開によって総建築面積の半数近くがの建物が解体されました。
【御所を造営した第50代・桓武天皇】
桓武天皇は737年(天平9年)に白壁王(第49代・光仁天皇)と高野新笠の第1皇子として生まれました。母が百済系渡来人氏族・和氏の出身であったことから官僚として大学頭・侍従に任じられ、770年(宝亀元年)に父が第49代・光仁天皇に即位すると親王宣下を受けました。772年(宝亀3年)に皇后・井上内親王が光仁天皇を呪詛したとして皇后を廃され、その後異母弟である皇太子・他戸親王も皇太子を廃されると翌773年(宝亀4年)に皇太子になりました。781年(天応元年)に父から譲位され、第50代・桓武天皇に即位しました。784年(延暦3年)に長岡京の遷都、794年(延暦13年)に平安京の遷都を行って律令国家としての強化・拡大を図りました。最澄・空海を重用して平安仏教の確立にも尽力しました。また奥羽の蝦夷平定の為に坂上田村麻呂を将軍として遠征させ、地方行政の整備なども行いました。なお第50代・桓武天皇は806年(延暦25年)に崩御しました。
【京都御所 備考】
*参考・・・京都御所(歴史・見どころ・・・)ホームページ