修学院離宮の歴史は後水尾上皇の指示で造営されたのが起源

修学院離宮紅葉見ごろ

修学院離宮の時代別年表と重要人物

修学院離宮は1656年(明暦2年)から後水尾上皇の指示により、江戸幕府が造営を開始したのが起源です。1659年(万治2年)に完成したと言われています。後水尾上皇は女中に変装して訪れ、指図したとも言われています。なお歴史は修学旅行・観光の為に簡単にマトメています。

【円照寺(圓照寺)】

  • 円照寺(えんしょうじ・圓照寺)は1641年(寛永18年)に第108代・後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の第1皇女・文智女王(ぶんちじょおう)が修学院(しゅうがくいん)に草庵を結んだのが起源です。ちなみに文智女王は1640年(寛永17年)に22歳で、仏頂国師(ぶっちょうこくし)・一糸文守(いっしぶんしゅ)を師として出家し、大通文智尼になりました。1655年(明暦元年)から後水尾天皇が修学院離宮の造営を開始すると翌1656年(明暦2年)に後水尾天皇の中宮・東福門院(とうふくもんいん・徳川和子(とくがわまさこ))の助力により、円照寺は奈良市八島町に移って八嶋御所と称しました。その後1669年(寛文9年)に現在の場所である奈良市山町に移り、皇女が入寺したことから門跡寺院になり、山村御所と言われました。
  • 1655年(明暦元年)に後水尾上皇が円照寺の文智女王を訪ね、隣雲亭(りんうんてい)からの眺めから修学院離宮の造営を決意したとも言われています。なお後水尾上皇は1653年(承応2年)に円照寺に行幸したり、女院長谷殿に度々行幸したりしたと言われています。

【修学院離宮の起源・始まり】

  • 修学院離宮は1656年(明暦2年)から後水尾上皇の指示により、江戸幕府が造営を開始したのが起源です。1659年(万治2年)に完成したとも言われています。後水尾上皇は女中に変装して造営中の修学院離宮を訪れ、指図したとも言われています。なお後水尾上皇は修学院離宮完成後に行幸して披露し、八景詩を五山長老に命じたと言われています。
スポンサーリンク(Sponsor Link)

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】

  • 1657年(明暦3年)に後水尾上皇の女院が修学院離宮で煎茶会を催したと言われています。
  • 1660年(万治3年)に後水尾上皇と中宮・東福門院が揃って初めて行幸しました。
  • 1661年(万治4年)に浴龍池が完成したと言われています。翌1662年(寛文2年)に後水尾上皇は智忠親王・穏仁親王・良尚法親王とともに舟遊びを楽しんだと言われています。
  • 1678年(延宝6年)に隣雲亭が焼失し、翌1679年(延宝7年)に隣雲亭が再建されました。
  • 1679年(延宝7年)に後水尾上皇が行幸し、翌1680年(延宝8年)に崩御したころからこの行幸が最後になりました。
  • 1668年(寛文8年)に後水尾上皇の第8皇女・光子内親王の為の朱宮御所(あけのみやごしょ)として、楽只軒(らくしけん)が造営されました。光子内親王は修学院離宮の一部を父・後水尾上皇から賜って朱宮御所を営んでいました。
  • 1682年(天和2年)に後水尾上皇の第8皇女・光子内親王の為、1677年(延宝5年)に造営された後水尾上皇の中宮・東福門院(徳川和子)の女院御所・奥対面所が朱宮御所に移築されました。客殿の一ノ間の霞棚は桂離宮(かつらりきゅう)の桂棚・醍醐寺(だいごじ)の塔頭(たっちゅう)・三宝院(さんぼういん)の醍醐棚とともに「天下三棚」と称されています。その後1680年(延宝8年)に後水尾法皇が崩御すると光子内親王は出家し、朱宮御所を林丘寺(りんきゅうじ)に改められました。林丘寺は1884年(明治17年)に寺地の約半分を皇室に返還し、1885年(明治18年)に客殿・楽只軒が修学院離宮に編入されました。
  • 1677年(延宝5年)に隣雲亭が焼失しました。
  • 1709年(宝永6年)に止々斎(ししさい)が仙洞御所(せんとうごしょ)に移築されました。ただ止々斎は1788年(天明8年)の天明の大火により、仙洞御所とともに焼失しました。
  • 1824年(文政7年)に隣雲亭が再建されました。なお1721年(享保6年)に霊元法皇(第112代・霊元天皇(れいげんてんのう))が修学院離宮を行幸した際に隣雲亭を訪れたという記録があり、1677年(延宝5年)の焼失後に一度再建されたが、その後荒廃し、1824年(文政7年)に再建されたと言われています。
  • 1824年(文政7年)に江戸幕府第11代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)が光格上皇(第119代・光格天皇(こうかくてんのう))の為に修学院離宮を改修した際、寿月観(じゅげつかん)が再建されました。かつての寿月観は岩倉殿(顕子内親王(けんしないしんのう))の山荘から移築され、後水尾上皇が行幸した際に御座所に使われたが、享保年間(1716年~1736年)に失われました。

【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】

  • 1877年(明治10年)に第122代・明治天皇(めいじてんのう)が行幸しました。フランス特命全権公使が招かれ、午餐の会が催されました。
  • 1879年(明治12年)の第8回京都博覧会、1880年(明治13年)の第9回京都博覧会、1882年(明治15年)の第11回京都博覧会の開催に伴って、修学院離宮が特別公開されました。
  • 1884年(明治17年)に上御茶屋・下御茶屋が宮内省の所管になりました。
  • 1885年(明治18年)に中御茶屋が修学院離宮に編入されました。なお第122代・明治天皇の行幸に備え、道が拡幅整備され、松が植栽されました。
  • 太平洋戦争後に修学院離宮が京都御所・桂離宮などとともに皇室用財産として、宮内庁が管理しています。

【修学院離宮を創建した第108代・後水尾天皇】

第108代・後水尾天皇は1596年(文禄5年)に第107代・後陽成天皇と女御・中和門院(近衛前子)の間に生まれました。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで勝利した江戸幕府初代将軍・徳川家康が皇位継承に介入し、次期天皇に決まったが、父と不仲になりました。1600年(慶長5年)に親王宣下を受け、1611年(慶長16年)に父が譲位すると天皇に即位しました。その後江戸幕府による公家衆法度・勅許紫衣法度・禁中並公家諸法度の制定や東福門院(徳川和子)の入内・およつ御寮人事件・紫衣事件・金杯事件などにより、1629年(寛永6年)に江戸幕府への通告しないまま東福門院との間に生まれた第2皇女・興子内親王(第109代・明正天皇)に譲位し、明正天皇、第110代・後光明天皇、第111代・後西天皇、第112代・霊元天皇の後見人として院政を行いました。なお第108代・後水尾天皇は1680年(延宝8年)に崩御しました。

【修学院離宮 備考】
*参考・・・修学院離宮(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ

関連記事

京都観光おすすめ

  1. 錦市場(Nishiki Market)
  2. 竹林の道(Bamboo Forest Path)
  3. 嵐山
ページ上部へ戻る