知恩院の歴史は法然上人が東山吉水に草庵を結んだのが起源
知恩院の時代別年表と重要人物
知恩院は1175年(承安5年)に浄土宗の宗祖・法然上人が勢至堂付近の東山吉水に草庵を結んだのが起源です。草庵は吉水御坊・大谷禅坊・吉水草庵などと称され、法然上人は専修念仏を初めて布教しました。なお歴史は修学旅行・観光の為に簡単にマトメています。
【知恩院が山麓に建立されている華頂山】
- 知恩院が山麓に建立されている華頂山(かちょうざん))は標高約210メートルで、東山三十六峰に数えられています。
【知恩院の起源・始まり】
- 知恩院は平安時代後期の1175年(承安5年)に浄土宗(じょうどしゅう)の宗祖・法然上人(ほうねんしょうにん)が43歳で勢至堂(せいしどう)付近の東山吉水(よしみず)に草庵を結んだのが起源と言われています。草庵は専修念仏(せんじゅねんぶつ) の道場になり、吉水御坊・大谷禅坊などと称されました。ただ法然上人は承元の法難(じょうげんのほうなん)により、鎌倉時代前期の1207年(建永2年)から1211年(建暦元年)まで讃岐国(香川)に流罪になり、その後大谷山上の禅房(勢至堂)に戻りました。ちなみに承元の法難は後鳥羽上皇(第82代・後鳥羽天皇(ごとばてんのう))が熊野に行幸した際、寵愛していた女官である鈴虫・松虫が法然上人の弟子である安楽(あんらく)・住蓮(じゅうれん)の教えに感銘して出家した為、安楽・住蓮が斬首され、法然上人が讃岐国に流罪になったものです。なお勢至堂は知恩院発祥の地とされています。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】
- 1212年(建暦2年)に知恩院開山・法然上人が80歳で亡くなり、弟子・勢観房源智(せいかんぼうげんち)が廟(廟堂)を造り、弟子・信空(しんくう)が守護しました。
- 1227年(嘉禄3年)に比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)の衆徒によって廟が破壊されました。なお嘉禄の法難(かろくのほうなん)では法然上人の遺骸(いがい)が秘かに粟生(あおう)の光明寺(こうみょうじ)に移され、荼毘(だび)に付されたとも言われています。
- 1234年(文暦元年)に勢観房源智が再興し、知恩院大谷寺(おおたにでら)と名付け、法然上人を知恩院開山1世としたと言われています。なお第87代・四条天皇(しじょうてんのう)からは寺号「華頂山(かちょうざん)知恩教院大谷寺」を賜り、勅願所(ちょくがんしょ)になりました。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】
- 1431年(永享3年)に火災によって知恩院が焼失したが、その後再建されたと言われています。
- 室町時代中期に応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))によって知恩院が焼失しました。応仁の乱では知恩院22世・周誉珠琳が近江国伊香立(大津市伊香立)の金蓮寺(こんれんじ)に避難し、法然御影・仏像・寺宝は新知恩院(しんちおんいん)に移されました。
- 1478年(文明10年)に知恩院が再興されました。
【戦国時代(1493年頃~1590年頃)の歴史・出来事】
- 1517年(永正14年)に火災に見舞われたが、影像・勅伝などは焼失を免れました。
- 1523年(大永3年)に知恩院25世・超誉存牛(ちょうよぞんぎゅう)と百萬遍知恩寺(ひゃくまんべんちおんじ)25世・慶秀(けいしゅう)の間で本寺争いになったが、知恩院が勝利して鎮西義(ちんぜいぎ)で第一の座次になり、本山になりました。
- 1530年(享禄3年)に勢至堂が再興され、第105代・後奈良天皇(ごならてんのう)から勅額「知恩院教院」・「大谷寺」を賜りました。
- 1575年(天正3年)に第106代・正親町天皇(おおぎまち)から知恩院が浄土宗本寺と承認され、浄土宗僧侶への香衣の付与・剥奪の権限が与えられたと言われています。
【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】
- 1585年(天正13年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が知恩院に寺領190石を寄進しました。その後も寄進したと言われています。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】
- 1603年(慶長8年)に浄土宗徒で、江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)が知恩院を永代菩提所と定め、寺領703石余を寄進しました。
- 1604年(慶長9年)に徳川家康が青蓮院(しょうれんいん)の境内を一部割譲させ、堂塔の建立を開始します。
- 1607年(慶長12年)に徳川家康が第107代・後陽成天皇(ごようぜいてんのう)の皇子・良純親王を猶子(ゆうし)とし、知恩院29世・満譽尊照の後継者にしたことから門跡寺院になりました。
- 1608年(慶長13年)に徳川家康が知恩院の寺地を拡大し、伽藍の再建を開始し、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)と江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)に引き継がれ、1641年(寛永18年)までに伽藍の多くが再建されました。
- 1633年(寛永10年)に火災に見舞われました。ただ三門・経蔵は焼失を免れました。
- 1639年(寛永16年)に諸堂が再建されました。
- 1710年(宝永7年)に霊元上皇(第112代・霊元天皇(れいげんてんのう))から上皇宸翰の勅額「華頂山」を賜りました。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
- 明治維新後の神仏分離令・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、知恩院が荒廃しました。
- 1872年(明治5年)に西本願寺(にしほんがんじ)・建仁寺(けんにんじ)とともに第1回京都博覧会となり、第122代・明治天皇(めいじてんのう)がご臨幸されました。
- 1947年(昭和22年)に浄土宗から分派し、知恩院が本派浄土宗(浄土宗本派)を結成しました。
- 1962年(昭和37年)に知恩院と浄土宗本派が浄土宗に合流し、知恩院が浄土宗の総本山になりました。
【知恩院の開山とされる法然上人】
法然上人は1133年(長承2年)に美作国(岡山県)の押領使・漆間時国と秦氏君清刀自の子として生まれたと言われています。1141年(保延7年)に父・漆間時国が殺害され、母方の叔父で、僧侶・観覚のもとで剃髪し、1145年(天養2年)に延暦寺に登って源光に師事して天台を学びました。しかし1150年(久安6年)に教学などに疑問を感じ、西塔黒谷・叡空のもとで修業し、法然房源空と称しました。その後20年間に渡って修学し、中国浄土教の僧・善導の「観無量寿経疏」や天台宗の僧である恵心僧都・源信の「往生要集」により、「南無阿弥陀仏」の名号を口に出して称える称名念仏に専修する悟りに達し、浄土宗を開きました。京都吉水に草庵を結んで老若貴賤に布教したが、女官の出家を契機に南都北嶺(興福寺・延暦寺)から迫害を受け、1207年(承元元年)に讃岐に配流され、その後赦免されて京都に戻りました。なお法然上人は1212年(建暦2年)に東山大谷で亡くなりました。
【知恩院 備考】
*参考・・・知恩院(歴史・見どころ・・・)ホームページ