高台寺の歴史は北政所が豊臣秀吉の菩提を弔ったのが起源

高台寺(Kodai-ji Temple)

高台寺の時代別年表と重要人物

高台寺は1606年(慶長11年)に北政所が夫・豊臣秀吉の菩提を弔う為、弓箴善彊を開山に実母・朝日局が弔われていた康徳寺を岩栖院跡に移転させたのが起源です。北政所は高台寺西側に自らの屋敷も造営しました。なお歴史は修学旅行・観光の為に簡単にマトメています。

高台寺見どころ(霊屋・開山堂など)

【高台寺が建立されている場所】

  • 高台寺が建立されている場所には細川満元(ほそかわみつもと)が創建したとも言われる岩栖院(がんせいいん)が建立されていました。
  • 桃山時代の1598年(慶長3年)9月18日(旧暦8月18日)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が62歳で伏見城内で亡くなりました。
  • 江戸時代初期の1603年(慶長8年)に豊臣秀吉の正室で、高台寺開基・北政所(きたのまんどころ)が第107代・後陽成天皇(ごようぜいてんのう)から院号・高台院湖月尼(こうだいいんこげつに)を賜ると夫・豊臣秀吉の菩提(ぼだい)を弔う為に寺院建立を発願しました。
  • 1605年(慶長10年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)が北政所の実母・朝日局(あさひのつぼね・吉子)が弔われていた京都市上京区上御霊馬場町の菩提寺・康徳寺(こうとくじ)の寺領を安堵したと言われています。

【高台寺の起源・始まり】

  • 高台寺は1606年(慶長11年)に北政所が夫・豊臣秀吉の菩提を弔う為に弓箴善彊(きゅうしんぜんきょう)を開山として創建しました。北政所は当初、実母・朝日局が弔われていた康徳寺に豊臣秀吉を弔うとしたが、手狭だったことから現在の高台寺やその塔頭(たちゅう)が建立されている場所にあった岩栖院を南禅寺(なんぜんじ)境内に塔頭(たっちゅう)として移転させ、その後岩栖院跡に康徳寺を移転させて新たに高台寺を創建しました。高台寺創建時の仏殿は康徳寺の堂を移築・改造して建立され、方丈・茶室などは豊臣秀吉が築城した伏見城(ふしみじょう)から移築されて建立されました。また北政所は高台寺西側に伏見城から北政所化粧御殿(けしょうごてん)やその前庭を移築し、自らの邸宅・高台院屋敷にしました。なお徳川家康は北政所を手厚く扱い、高台寺の普請奉行(ふしんぶぎょう)に京都所司代(きょうとしょしだい)・板倉勝重(いたくらかつしげ)、普請御用掛に酒井忠世(さかいただよ)と土井利勝(どいとしかつ)、普請掛に堀直政(ほりなおまさ・堀監物(ほりけんもつ))を任命しました。開山堂には高台寺建立に尽力した堀直政の像が安置されています。
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【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の出来事】

  • 1608年(慶長13年)に北政所の従弟・久林玄昌(きゅうりんげんしょう)が高台寺の塔頭・岡林院(こうりんいん)を建立しました。
  • 1612年(慶長18年)に徳川家康が高台寺に寺領400石を寄進したと言われています。
  • 1615年(慶長20年)に豊臣家が滅亡する大坂夏の陣が起こり、北政所は伏見城から高台寺に移した茶室・時雨亭(重要文化財)の2階から燃え落ちる大坂城の天守を見つめていたとも言われています。
  • 1616年(元和2年)に久林元昌が高台寺の塔頭・月真院(げっしんいん))を建立しました。
  • 1624年(寛永元年)に三江紹益(さんこうじょうえき)を臨済宗(りんざいしゅう)建仁寺派の大本山・建仁寺(けんにんじ)から高台寺に招聘し、曹洞宗(そうとうしゅう)から臨済宗(りんざいしゅう)に改めました。北政所の兄・木下家定(きのしたいえさだ)は三江紹益と親交が深く、木下家定の八男・周南紹叔(しゅうなんしょうしゅく)が三江紹益の元で出家したそうです。
  • 1624年(寛永元年)9月に北政所が高台院屋敷で亡くなりました。その後1632年(寛永9年)に甥で、備中足守藩2代藩主・木下利房(きのしたとしふさ)が高台院屋敷を三江紹益を開山として高台寺の塔頭・圓徳院(えんとくいん)に改め、木下家の菩提寺にしました。
  • 1648年(慶安元年)に北政所の甥・木下勝俊(きのしたかつとし)が高台寺の塔頭・春光院(しゅんこういん)を建立しました。
  • 1650年(慶安3年)に高台寺中興開山・三江紹益が亡くなりました。
  • 1789年(寛政元年)に大方丈・小方丈・庫裏などが焼失しました。その後1795年(寛政7年)に小方丈が圓徳院の北政所化粧御殿を移して再建され、圓徳院には新たに北書院が建立されました。
  • 1863年(文久3年)に高台寺が公武合体派の福井藩主・松平慶永(まつだいらよしなが・松平春嶽(まつだいらしゅんがく))の宿所になり、小方丈などが放火によって焼失しました。
  • 1867年(慶応3年)に新撰組(しんせんぐみ)を脱退した伊東甲子太郎(いとうかしたろう)ら禁裏御陵衛士(きんりごりょうえじ)が塔頭・月真院を屯所にし、高台寺党とも言われました。

【明治時代以降(1868年頃~)の出来事】

  • 明治維新後の神仏分離令・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、高台寺が荒廃しました。
  • 1869年(明治2年)に上知令により、高台寺の寺領が減少しました。
  • 1885年(明治18年)に仏殿・大方丈・小方丈が焼失しました。
  • 1998年(平成10年)に高台寺掌美術館(しょうびじゅつかん)が開館しました。

【高台寺の開基とされる北政所】

北政所(ねね・おね)は1548年(天文17年)または1549年(天文18年)に杉原定利と朝日殿の次女として尾張国朝日村に生まれました。その後叔母・七曲殿の嫁ぎ先である浅野長勝の養女になりました。1561年(永禄4年)に14歳で関白・豊臣秀吉(木下藤吉郎)と恋愛結婚しました。北政所と秀吉の間に子供はなかったが、いずれも賤ヶ岳の七本槍に数えられた加藤清正・福島正則など親類縁者を養子や家臣として養育しました。1585年(天正13年)に秀吉が関白になると従三位に叙せられ、北政所の称号を許されました。1588年(天正16年)に秀吉が造営した聚楽第に第107代・後陽成天皇が行幸し、無事に還御すると従一位に昇叙しました。1598年(慶長3年)に秀吉が亡くなると秀吉の側室・淀殿とともに豊臣秀頼を後見し、1603年(慶長8年)に秀頼と徳川家康の孫で、徳川秀忠の長女・千姫が結婚すると落飾し、朝廷から院号を賜って高台院快陽心尼(高台院湖月心尼)と称しました。1606年(慶長11年)に高台寺を創建し、秀吉の菩提(ぼだい)を弔いました。なお北政所は1624年(寛永元年)に亡くなりました。

【高台寺 備考】
*参考・・・高台寺(歴史・見どころ・・・)ホームページ

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