金戒光明寺の歴史は法然上人が比叡山を下り、草庵を結んだのが起源
金戒光明寺の時代別年表と重要人物
金戒光明寺は1175年(承安5年)に法然上人が比叡山黒谷を下り、草庵を最初に結んだのが起源と言われています。山頂の石の上でお念仏を行うと紫雲が全山にみなぎり、光明があたりを照らしたと言われています。なお歴史は修学旅行・観光の為に簡単にマトメています。
【金戒光明寺が建立されている場所】
- 金戒光明寺が建立されている場所は公卿・藤原顕時(ふじわらのあきとき)の別荘があった場所と言われています。その後藤原顕時が天台宗の僧・叡空(えいくう)に帰依して寄進し、岡崎白河の禅房(本房)が建立されたと言われています。この地は比叡山黒谷(ひえいざんくろたに)の所領で、叡空が亡くなった際に黒谷の本房と岡崎白河の禅房が浄土宗(じょうどしゅう)の宗祖・法然上人(ほうねんしょうにん)に与えられたと言われています。なお比叡山黒谷は元黒谷、岡崎白河は新黒谷とも言われています。
【金戒光明寺の起源・始まり】
- 金戒光明寺は平安時代後期の1175年(承安5年)に法然上人が比叡山黒谷を下り、草庵を最初に結んだのが起源と言われています。金戒光明寺は浄土宗最初の寺院で、当初白河の禅房とも言われていたそうです。1175年(承安5年)に43歳の法然上人がお念仏の教えを広める為、山頂の石の上でお念仏を行うと紫雲が全山にみなぎり、光明があたりを照らしたことから草庵を結んだと言われています。なお金戒光明寺は知恩院(ちおんいん)と並ぶ格式を誇り、浄土宗の七大本山(増上寺(ぞうじょうじ)・光明寺(こうようじ)・善光寺大本願(ぜんこうじだいほんがん)・百万遍知恩寺(ひゃくまんべんちおんじ)・清浄華院(しょうじょうけいん)・善導寺(ぜんどうじ)))・京都四箇本山(知恩院・百万遍知恩寺・清浄華院)に数えられています。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】
- 鎌倉時代に法然上人が藤原顕時の孫で、白川門徒の祖である金戒光明寺2世・法蓮房信空(ほうれんぼうしんくう)に黒谷の本房・白河の禅房(金戒光明寺)を与えたと言われています。法蓮房信空は白河の禅房に住し、白河門徒の拠点になりました。その後岡崎白河が新黒谷ではなく、黒谷と言われるようになりました。
- 鎌倉時代中期頃に金戒光明寺5世・素月房恵顗(えぎ)が伽藍を整え、法然上人が見た縁起に因んで、紫雲山光明寺と号しました。
【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の歴史・出来事】
- 南北朝時代に金戒光明寺8世・我観房運空(うんくう)が北朝第4代・後光厳天皇(ごこうごんてんのう)に戒を授けたことから「金戒」の二字を賜り、金戒光明寺と言うようになりました。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】
- 1428年(応永35年・正長年)に金戒光明寺は法然上人が最初に浄土宗の布教を行った地に因み、北朝第6代で、第100代・後小松天皇(ごこまつてんのう)から勅額「浄土真宗最初門」を賜りました。
- 室町時代中期に応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))が起こり、伽藍が焼失したと言われています。
【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】
- 1585年(天正13年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が金戒光明寺に寺領130の朱印状を出したと言われています。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】
- 江戸時代初期に江戸幕府が知恩院とともに金戒光明寺の伽藍を城郭構造に改修しました。
- 1612年(慶長10年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の子・豊臣秀頼(とよとみひでより)が阿弥陀堂を再建しました。
- 1633年(寛永10年)に豊永宗如(伊丹重好)が江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の菩提を弔う為に文殊塔を建立したと言われています。
- 1689年(元禄2年)に経堂が建立されました。
- 1860年(万延元年)に山門が再建されました。
- 1862年(文久2年)に金戒光明寺が京都守護職となった会津藩の本陣になりました。藩士など1,000人がに常駐し、1年おきに交替しました。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
- 1946年(昭和21年)に金戒光明寺が黒谷浄土宗として独立したが、1977年(昭和52年)に浄土宗に合流しました。
- 1936年(昭和11年)に大方丈・玄関が再建されました。
- 1936年(昭和11年)頃に唐門が建立されました。
- 1944年(昭和19年)に御影堂が再建されました。
【金戒光明寺の開山とされる法然上人】
法然上人は1133年(長承2年)に美作国(岡山)の押領使・漆間時国と秦氏君清刀自の子として生まれたと言われています。1141年(保延7年)に父が殺害され、母方の叔父で、僧侶・観覚のもとで剃髪し、1145年(天養2年)に延暦寺に登って源光に師事して天台を学びました。しかし1150年(久安6年)に教学などに疑問を感じ、西塔黒谷・叡空のもとで修業し、法然房源空と称しました。その後20年間に渡って修学し、中国浄土教の僧・善導の「観無量寿経疏」や天台宗の僧である恵心僧都・源信の「往生要集」により、「南無阿弥陀仏」の名号を口に出して称える称名念仏に専修する悟りに達し、浄土宗を開きました。京都吉水に草庵を結んで老若貴賤に布教したが、女官の出家を契機に南都北嶺(興福寺・延暦寺)から迫害を受け、1207年(承元元年)に讃岐に配流され、その後赦免されて京都に戻りました。なお法然上人は1212年(建暦2年)に東山大谷で亡くなりました。
【金戒光明寺 備考】
*参考・・・金戒光明寺(歴史・見どころ・・・)ホームページ