隨心院の歴史は増俊が曼荼羅寺の塔頭として創建したのが起源
隨心院の時代別年表と重要人物
隨心院は鎌倉時代に増俊が曼荼羅寺の塔頭として創建したのが起源です。曼荼羅寺は991年(正暦2年)に仁海が一条天皇から小野氏邸の隣に土地を賜って創建しました。隨心院は1229年(寛喜元年)に門跡寺院になりました。なお歴史は修学旅行・観光の為に簡単にマトメています。
【小野小町邸・牛皮山曼荼羅寺】
- 隨心院が建立されている場所は楊貴妃(ようきひ)・クレオパトラ7世とともに世界三大美人に数えられ、絶世の美女と謳われた女流歌人(六歌仙)・小野小町(おののこまち)邸があった場所とも言われています。また隨心院は平安時代中期の991年(正暦2年)に真言宗(しんごんしゅう)の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)から8代目の弟子で、雨僧正とも言われた真言宗小野流の開祖・仁海僧正(にんがいそうじょう)が第66代・一条天皇(いちじょうてんのう)から小野氏邸宅の隣に土地を賜って創建した牛皮山曼荼羅寺(ぎゅうひさんまんだらじ)が建立されていた場所とも言われています。仁海僧正は亡き母が牛に生まれ変わっている夢を見て、その牛を鳥羽のあたりに尋ねて飼養していたが、その後死んでしまい、悲しんでその牛の皮に両界曼荼羅(りょうかいまんだら)の尊像を画いて本尊に祀りました。また仁海僧正は牛の尾を牛尾山山上に埋めて菩堤を弔ったと言われています。なお仁海僧正は宮中から深く帰依され、勅命によって神泉苑(しんせんえん)に請雨の法を9回行い、その度に霊験があったことから雨僧正とも称されました。
【隨心院の起源・始まり】
- 隨心院は鎌倉時代に曼荼羅寺5世住持・増俊(ぞうしゅん)が曼荼羅寺の子房として創建しました。その後第84代・順徳天皇(じゅんとくてんのう)、第86代・後堀河天皇(ごほりかわてんのう)、第87代・四条天皇(しじょうてんのう)の祈願所になったと言われています。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の出来事】
- 1221年(承久3年)に承久の乱(じょうきゅうのらん)が起こり、その兵火によって焼失したと言われています。
- 1229年(寛喜元年)に後堀河天皇の宣旨(せんじ)によって門跡寺院になり、隨心院門跡と称しました。門跡が一条家・二条家・九条家などから入寺したと言われています。堂塔が整備され、七堂伽藍が壮美を誇っていたと言われています。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の出来事】
- 室町時代中期に応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))が起こり、その兵火によって伽藍の多くを焼失しました。その後「隨心院史略」によると九条唐橋(くじょうからはし)・相国寺(しょうこくじ)近辺などに度々移りました。
【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の出来事】
- 1599年(慶長4年)に曼陀羅寺の故地に本堂が再建されました。その後門跡が九条家・二条家から入寺し、両摂家の寄進によって伽藍が再建されました。
- 桃山時代から江戸時代初期に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の子・豊臣秀頼(とよとみひでより)から寄進を受けたとも言われています。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の出来事】
- 1609年(慶長14年)に徳川家から寺領312石が寄進され、その後300石が加増されたと言われています。
- 寛永年間(1624年~1631年)に表書院・大玄関が再建・建立されました。
- 1743年(寛保3年)に門跡・堯厳が還俗して九条尚実になり、その後関白・太政大臣になりました。堯厳は関白・九条輔実の子として生まれ、その後大僧正(だいそうじょう)になったが、九条稙基が夭折したことから還俗しました。
- 宝暦年間(1751年~1764年)に能の間が建立されました。
- 1753年(宝暦3年)に庫裡・総門が建立されました。
【明治時代以降(1868年頃~)の出来事】
- 1907年(明治40年)に真言宗が山階派(やましなは)・小野派(おのは)・東寺派(とうじは)・泉涌寺派(せんにゅうじは)に分裂し、随心院は小野派本山になりました。
- 1931年(昭和6年)に真言宗小野派が真言宗善通寺派に改称し、1941年(昭和16年)に善通寺(ぜんつうじ)が総本山に昇格しました。真言宗の宗祖である弘法大師・空海の生誕地に建立されている善通寺が善通寺派総本山、随心院が同派大本山と位置付けられています。
- 1966年(昭和41年)に境内が史跡に指定されました。
- 1973年(昭和48年)にはねず踊りが復興されました。
【隨心院の中興とされる増俊】
増俊は1084年(応徳元年)に生まれたと言われています。勧修寺(かじゅうじ)の厳覚(ごんかく)から灌頂(かんじょう)を受けました。その後仁海僧正が創建した曼荼羅寺を復興したと言われています。増俊は中納言阿闍梨(ちゅうなごんあじゃり)と言われています。なお増俊は1165年(長寛3年)に亡くなりました。
【隨心院 備考】
*参考・・・隨心院(歴史・見どころ・・・)ホームページ