仁和寺歴史-光孝天皇が西山御願寺創建を発願したのが起源
仁和寺歴史-修学旅行・観光ポイント
仁和寺の歴史は886年(仁和2年)に光孝天皇が西山御願寺の創建を発願したのが始まりです。ただ翌887年(仁和3年)に光孝天皇が崩御し、仁和寺は888年(仁和4年)に子・宇多天皇が父の遺志を引き継いで創建しました。なお歴史は時代別に年表にまとめ、重要人物も紹介しています。
【西山御願寺の発願】
★平安時代前期の886年(仁和2年)に第58代・光孝天皇(こうこうてんのう)が西山御願寺(にしやまごがんじ)を大内山の麓に創建することを発願したが、翌887年(仁和3年)に光孝天皇が崩御しました。
【仁和寺の起源・始まり】
★仁和寺は平安時代前期の888年(仁和4年)に光孝天皇の皇子で、第59代・宇多天皇(うだてんのう)が父の遺志を引き継いで創建し、光孝天皇の周忌御斎会を行ないました。なお仁和寺は当初、西山御願寺と言われていたが、年号から年号寺・仁和寺になりました。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の出来事・事件】
★仁和寺では897年(寛平9年)に宇多天皇が第60代・醍醐天皇(だいごてんのう)に譲位し、899年(昌泰2年)に東寺(とうじ)一長者(いちのちょうじゃ)・益信(やくしん)を戒師として落髪し、宇多法皇になって仁和寺1世になりました。なお別当は宇多法皇の子孫が代々務めました。
★899年(昌泰2年)に円堂院(八角堂)が建立されました。
★904年(延喜4年)に宇多法皇は僧房・御室(御座所(ござしょ))を造営してて住み、御室御所(おむろごしょ)と言われるようになりました。その後仁和寺は皇族などが代々門跡(住職)を務める門跡寺院にもなりました。
★928年(延長6年)に観音堂が建立されたと言われています。
★931年(承平元年)に宇多法皇が崩御し、952年(天暦6年)4月に朱雀法皇(第61代・朱雀天皇(すざくてんのう))が仁和寺に移り、同年8月に崩御しました。
★957年(天徳元年)に仁和寺桜会が行われました。
★1010年(寛弘7年)に藤原道長(ふじわらのみちなが)の妻・倫子の御願によって観音院潅頂堂が建立されました。
★1119年(元永2年)に金堂・観音院・潅項院など仁和寺の伽藍の多くが焼失し、同年12月に金堂が再建され、1122年(保安2年)に観音院・仏母院が再建されました。
★1130年(大治5年)に第74代・鳥羽天皇(とばてんのう)の中宮・待賢門院(たいけんもんいん)の御願によって法金剛院(ほうこんごういん)が建立されました。
★1135年(保延元年)に鳥羽法皇が仁和寺の修理を行い、1144年(天養元年)に鳥羽法皇の発願によって孔雀明王(くじゃくみょうおう)堂が建立されました。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の出来事・事件】
★1186年(文治2年)に守覚法親王が「三十帖冊子」を東寺の経蔵から仁和寺大聖院の経蔵に移しました。
★1211年(承元5年)に御影堂が創建されたと言われています。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の出来事・事件】
★室町時代中期に応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))が勃発し、仁和寺の伽藍の多くが焼失しました。仁和寺では守護大名・山名宗全(やまなそうぜん)が総大将となった西軍が陣を敷き、細川勝元(ほそかわかつもとが)が総大将となった東軍が攻撃したそうです。なお本尊・阿弥陀三尊(あみださんぞん)や聖教などは仁和寺の院家・真光院(しんこういん)に移されました。寺基は双ヶ丘の西麓にある西方寺に移されたと言われています。
【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の出来事・事件】
★1591年(天正19年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)から朱印地860石が仁和寺に与えられました。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の出来事・事件】
★1617年(元和3年)に江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)から朱印地1,500石が仁和寺に与えられました。
★1634年(寛永11年)に第107代・後陽成天皇(ごようぜいてんのう)の第1皇子で、仁和寺第21世・覚深入道親王(かくしんがにゅうどうしんのう)が京都に上洛していた江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)に仁和寺再興を申し入れ、承諾されました。京都御所では御所造替と重なったことから金堂となる紫宸殿(ししんでん)・御影堂となる清涼殿(せいりょうでん)・御常御殿(おつねごてん)などの建物を賜り、1646年(正保3年)に伽藍の再建が完了しました。
★1827年(文政10年)に仁和寺第29世・済仁法親王(さいにんほうしんのう)が御室八十八ヶ所霊場を開設しました。
★1867年(慶応3年)に仁和寺第30世・純仁法親王(じゅんにんほっしんのう)が還俗し、仁和寺宮嘉彰親王(にんなじのみやよしあきらしんのう)になったことから門跡寺院の歴史が終わりました。
【明治時代以降(1868年頃~)の出来事・事件】
★1871年(明治4年)に三門跡制(宮門跡・摂家門跡・准門跡)が廃止されたが、1885年(明治18年)に仁和寺が旧門跡の復称が許されました。
★1887年(明治20年)に御室御所が焼失しました。大正時代に再建されました。
★1924年(大正13年)に御室桜が国の名勝に指定されました。
★1994年(平成6年)に仁和寺はユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」に登録されました。
【仁和寺の開基とされる第59代・宇多天皇】
第59代・宇多天皇は867年(貞観9年)に第58代・光孝天皇と皇太后・班子女王の皇子・定省として生まれました。父・光孝天皇は不祥事で退位させられた第57代・陽成天皇の大叔父にあたり、皇位が嫡流である陽成天皇の同母弟・貞保親王などに戻ることを考え、定省などの皇子・皇女は臣籍降下させられ、源定省と称しました。887年(仁和3年)に父・光孝天皇が重態になると関白・藤原基経の推挙によって親王に復し、同年8月に父・光孝天皇が崩御すると第59代・宇多天皇に即位しました。891年(寛平3年)に藤原基経が亡くなると親政を開始し、菅原道真などを重用し、寛平の治と言われました。遣唐使が停止され、官庁の統廃合なども行われました。897年(寛平9年)に皇太子・敦仁親王(第60代・醍醐天皇)に譲位し、899年(昌泰2年)に出家して法皇になり、仁和寺に入り、高野山・比叡山・熊野三山などを参詣しました。901年(昌泰4年)に菅原道真が大宰府に左遷されると内裏に押し掛けて抗議し、第60代・醍醐天皇と対立しました。なお第59代・宇多天皇は931年(承平元年)に崩御しました。
【仁和寺 備考】
*参考・・・仁和寺(歴史・見どころ・・・)ホームページ