化野念仏寺歴史の簡単マトメ-修学旅行・観光の解説

化野念仏寺

化野念仏寺歴史の簡単まとめ

化野念仏寺歴史を簡単にまとめてポイント解説します。化野念仏寺は811年(弘仁2年)に真言宗の宗祖である弘法大師・空海が五智山如来寺を創建し、野ざらしになっていた遺骸を埋葬したのが起源と言われています。なお化野念仏寺歴史では時代別に歴史年表にまとめ、重要人物も紹介したりしています。

【前史(化野)】

★化野念仏寺が建立されている化野は嵐山・嵯峨野(さがの)地域に位置する標高約296メートルの小倉山(おがらやま)の東北麓一帯にあります。化野は古くは山城国葛野(かどの)郡嵯峨と言われていました。化野はかつて人の死骸を捨てて風葬にした風葬の地で、西の化野として、北の蓮台野(れんだいの)・東の鳥辺野(とりべの)とともに京の三大墓地(風葬の地)と言われていました。その後近世には鳥辺山とともに火葬場として知られました。化野は古来、風葬だったが、その後土葬になり、人々が石仏を奉り、別離を悲しんだとも言われています。ちなみに鎌倉時代末期から南北朝時代に歌人・随筆家である吉田兼好(よしだけんこう)が記した「徒然草(つれづれぐさ)」第7段に「あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ちさらでのみ住み果つるならひならば、いかに、物のあはれもなからん。世はさだめなきこそ、いみじけれ」と記され、江戸時代中期の1682年(天和2年)から1686年(貞享3年)に記された地誌「雍州府志(ようしゅうふし)」に「嵯峨土人之墓処也、倭俗化字訓阿太変化無常之謂而其義相当者乎」と記されています。なお化野は「阿太志野」・「徒野」・「仇野」・「仇し野」などとも記されます。「あだし」とは「儚い(はかない)」・「虚しい(むなしい)」を意味しているそうです。
★平安時代初期に第52代・嵯峨天皇(さがてんのう)が檀林皇后(だんりんこうごう・橘嘉智子(たちばなのかちこ))との成婚の新室である離宮・嵯峨院(さがいん)を造営しました。嵯峨院では真言宗(しんごんしゅう)の宗祖である真言宗(しんごんしゅう)の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)が嵯峨天皇の信任を得て、弘法大師・空海が自ら刻んだと言われている五大明王(ごだいみょうおう)を安置する堂を建立して修法を行いました。その後876年(貞観18年)に嵯峨天皇の皇女で、第53代・淳和天皇(じゅんなてんのう)の皇后・正子内親王(まさこないしんのう)が嵯峨天皇の孫で、淳和天皇の第2皇子・恒寂入道親王(ごうじゃくにゅうどうしんのう)を開山(初代住職)として、離宮・嵯峨院を寺院に改め、大覚寺が創建されました。

【化野念仏寺創建(起源・由来)】

★化野念仏寺は寺伝によると平安時代前期の811年(弘仁2年)に弘法大師・空海が五智山如来寺(ごちざんにょらいじ)を創建し、野ざらしになっていた遺骸を埋葬したのが起源と言われています。弘法大師・空海は野ざらしになっていた遺骸を埋葬し、その供養の為に千体の石仏を埋め、五智如来(ごちにょらい)の石仏を建立したとも言われています。また小倉山(おぐらやま)周辺を金剛界(こんごうかい)、曼荼羅山(まんだらやま)周辺を胎蔵界(たいぞうかい)として、千体の石仏を集め、中央を流れる曼荼羅川沿いに五智如来の石仏を建立したとも言われています。ちなみに五智如来は大日如来(だいにちにょらい)・不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい)・阿しゅく如来(あしゅくにょらい)・阿弥陀如来(あみだにょらい)・宝生如来(ほうしょうにょらい)から構成され、密教の5つの知恵(法界体性智(ほうかいたいしょうち・大日如来)・成所作智(じょうそさち・不空成就如来))・大円鏡智(だいえんきょうち・阿しゅく如来)・妙観察智(みょうかんざつち・阿弥陀如来)・平等性智(びょうどうしょうち・宝生如来)が表されています。なお化野念仏寺は真言宗大覚寺派大本山・大覚寺(だいかくじ)が管理する真言宗の寺院だったとも言われています。

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【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の出来事】

★鎌倉時代初期に浄土宗(じょうどしゅう)の宗祖・法然上人(ほうねんしょうにん)が念仏道場を開き、真言宗から浄土宗に改め、寺号も念仏寺に改めたと言われています。
★鎌倉時代以降に石仏・石塔が建立されたとも言われています。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の出来事】

★1712年(正徳2年)に寂道(じゃくどう)が本堂を再建しました。
★1787年(天明7年)の「拾遺都名所図会(しゅういみやめいしょずえ)」に本堂・鐘楼・天神社・稲荷社などが描かれています。

【明治時代以降(1868年頃~)の出来事】

★1903年(明治36年)頃に宗教奉仕団体の福田海(ふくでんかい)の開祖・中山通幽(なかやまつうゆう)が化野に散在していた無縁仏などを掘り出して境内に集め、約8千体の石仏・石塔を極楽浄土(ごくらくじょうど)で阿弥陀仏(あみだぶつ)の説法を聴く人々になぞらえて配列・安祀し、賽の河原(さいのかわら)に因んで、「西院(さい)の河原」と名付けられました。石仏・石塔は発掘される壺(つぼ)・古銭などの時代考証により、平安時代(794年~1185年)・鎌倉時代(1185年~1333年)・室町時代(1336年~1573年)・江戸時代(1603年~1868年)の各時代のものと見られるそうです。なお化野念仏寺では例年8月の最終土曜日・日曜日に千灯供養が行われ、先ず地蔵堂前で法要が行われ、その後西院の河原に祀られている数千体の無縁仏(石塔・石仏)にロウソクが灯されます。

【弘法大師・空海:化野念仏寺開山】

弘法大師・空海は774年(宝亀5年)に佐伯直田公と母・阿刀大足の妹の間に讃岐国多度郡屏風浦(香川県善通寺市)で生まれました。789年(延暦8年)に母方の叔父・阿刀大足のもとで論語・孝経・史伝などを学び、792年(延暦11年)に官僚育成機関である大学寮に入って官吏としての学問を修めました。その後仏道を志して山林で修行し、三論宗の僧で、東大寺別当・勤操のもとで南都仏教を学びました。804年(延暦23年)に遣唐使として唐(中国)に渡り、長安(中国)で青竜寺の恵果のもとで密教を学び、伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「遍照金剛」の灌頂名を与えられました。806年(大同元年)に帰国し、真言密教を日本に伝えて真言宗の開祖になりました。816年(弘仁7年)から高野山で金剛峯寺創建に着手し、823年(弘仁14年)に東寺を賜って真言密教の道場にしました。なお弘法大師・空海は835年(承和2年)に高野山で亡くなりました。

【化野念仏寺歴史-修学旅行・観光ガイド 備考】
*参考・・・化野念仏寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ

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