興正寺歴史の簡単マトメ-修学旅行・観光の解説

興正寺

興正寺歴史の簡単まとめ

興正寺歴史を簡単にまとめてポイント解説します。興正寺は1211年(建暦元年)に承元の法難によって越後に流罪となった親鸞聖人が勅免され、翌1212年(建暦2年)に京都に戻って山科に一宇を建立したのが起源とも言われています。なお興正寺歴史では時代別に歴史年表にまとめ、重要人物も紹介したりしています。

【前史(承元の法難)】

★1206年(建永元年)に後鳥羽上皇(第82代・後鳥羽天皇(ごとばてんのう))が紀州(和歌山県)熊野に行幸した際、寵愛した女官である鈴虫(すずむし)・松虫(まつむし)が浄土宗(じょうどしゅう)の宗祖・法然上人(ほうねんしょうにん)の弟子である安楽(あんらく)・住蓮(じゅうれん)からの念仏の教えに感銘して出家しました。後鳥羽上皇の怒りに触れ、専修念仏(せんしゅうねんぶつ)の停止(ちょうじ)になり、法然上人が讃岐国(香川県)に流罪になり、浄土真宗(じょうどしんしゅう)の宗祖・親鸞聖人(しんらんしょうにん)が越後国(新潟県)に流罪になり、安楽が近江国(滋賀県)馬淵で斬首され、住蓮が山城国(京都)六条河原で斬首される承元の法難(じょうげんのほうなん・建永の法難(けんえいのほうなん))が起こりました。法然上人・親鸞聖人は僧籍を剥奪され、法然上人に「藤井元彦」、親鸞聖人に「藤井善信(ふじいよしざね)」という俗名が与えられて配流されました。

【興正寺創建(起源・由来)】

★興正寺(佛光寺)は寺伝によると鎌倉時代前期の1211年(建暦元年)に承元の法難(建永の法難)によって越後(新潟)に流罪(配流)となった親鸞聖人が勅免され、翌1212年(建暦2年)に京都に戻って山科に一宇を建立したのが起源とも言われています。なお親鸞聖人は越後国(新潟県)への流罪から5年経過した1211年(建暦元年)11月17日に岡崎中納言範光を通じ、第84代・順徳天皇(じゅんとくてんのう)から勅免の宣旨が下されました。

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【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の出来事】

★鎌倉時代前期に親鸞聖人は興正寺(佛光寺)を弟子で、2世・真仏上人(しんぶつしょうにん)に任せ、阿弥陀仏(あみだぶつ)の本願を広める為に関東行化に旅立ったとも言われています。ちなみに親鸞聖人は配流先の越後国(新潟)から京都に戻らず、直接関東に向かったとも言われています。また真仏上人は親鸞聖人が関東に向かった際に下野国(栃木県)の専修寺(せんしゅうじ・本寺専修寺)を任されたとも言われています。
★鎌倉時代前期に順徳天皇から寺号を「興正寺」と名付けられたと言われています。寺号「興正寺」には日本に仏教を広めた第31代・用明天皇(ようめいてんのう)の皇子・聖徳太子(しょうとくたいし・厩戸皇子(うまやどのおうじ))に因んで、「興隆正法(正しき法を興し、さかえさす)(正法を興隆する)」との願いが込められています。
★1320年(元応2年)に7世・了源上人(りょうげんしょうにん)が興正寺(佛光寺)の寺基を山科から旧仏教の盛んな東山の渋谷に移し、寺号も佛光寺と改めたと言われています。また1321年(元亨元年)頃に了源上人が五条西洞院にあった親鸞聖人の住坊を渋谷に移し、興正寺(佛光寺)を実質的に創建したとも言われています。なお了源上人は光明本尊・絵系図・名帳を用いて西日本一帯の布教活動に力を入れ、1335年(建武2年)の布教中に伊賀(三重)の七里峠で賊徒に襲われて亡くなりました。
★1327年(嘉暦2年)に本尊・阿弥陀如来(あみだにょらい)像が盗まれたが、その後南朝初代で、第96代・後醍醐天皇(ごだんごてんのう)が一筋の光が東南から差し込む夢を見て、本尊を取り戻すことができました。後醍醐天皇から勅号「阿弥陀佛光寺」を賜りました。そしてそれを機会に興正寺(佛光寺)の寺基が山科から東山の渋谷に移されたとも言われています。
★鎌倉時代後期以降、東山の渋谷への移転により、多くの参詣者が参拝して隆盛を極めました。最盛期には本願寺を上回る寺勢を誇りました。ただ隆盛に伴って、天台宗(てんだいしゅう)の本山・延暦寺(えんりゃくじ)からの圧力も強まりました。

【室町時代(1336年頃~1573年頃)の出来事】

★室町時代中期に応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))によって興正寺(佛光寺)の伽藍を焼失しました。
★1481年(文明13年)に14世・経豪(きょうごう)が本願寺8代・蓮如(れんにょ)に帰依し、法名を経豪から蓮教に改め、山科郷西野にあった山科本願寺に隣接して、新しく興正寺を創建しました。なお佛光寺の有力末寺48坊の内の42坊も本願寺派に属するようになりました。
★1532年(天文元年)の山科本願寺の戦いにより、六角定頼(ろっかくさだより)や日蓮宗(にちれんしゅう)の衆徒によって山科本願寺が焼き払われ、興正寺も焼失しました。なお翌1533年(天文2年)に本願寺は寺基を石山本願寺(大坂)に移しました。
★1569年(永禄12年)に本願寺11世・顕如(けんにょ)の次男・顕尊(けんそん)が興正寺に入寺し、大坂本願寺の脇門跡(わきもんぜき)に任ぜられました。
★1570年(元亀元年)に大坂本願寺が織田信長(おだのぶなが)から退去を命じられ、約11年に及ぶ石山合戦(いしやまかっせん)が起こり、興正寺は大坂本願寺とともに織田信長と戦いました。

【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の出来事】

★1585年(天正13年)に興正寺は親鸞聖人の御影とともに大坂天満に移り、伽藍を建立して、天満本願寺とともに法燈を守りました。なお本願寺は1582年(天正10年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)から大坂天満の土地を寄進されました。
★1591年(天正19年)に豊臣秀吉は京都堀川六条の土地を寄進し、興正寺は本願寺とともに現在の場所に移りました。豊臣秀吉は都市計画の一環として、堀川六条にあった時宗市屋派本山・金光寺(こんこうじ)を移転させ、興正寺・本願寺を大坂から京都に移転させました。なお金光寺は京都府京都市下京区六条通河原町西入本塩竃町586に移転しました。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の出来事】

★1602年(慶長7年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)が本願寺11世・顕如(けんにょ)の子・教如(きょうにょ)に寺地を寄進し、西本願寺の東側に東本願寺が建立されました。

【明治時代以降(1868年頃~)の出来事】

★1876年(明治9年)に興正寺は江戸時代を通じて西本願寺の末寺だったが、真宗興正派として独立し、東山に親鸞聖人の廟所である霊山本廟を建立しました。ただ興正寺の末寺は西本願寺に残留したものも多かったと言われています。
★1902年(明治35年)に不慮の火災により、「ひとつ御堂」と称せられた本堂などの伽藍を焼失しました。本堂は着工から128年掛けて完成し、日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)の本廟・知恩院(ちおいん)の三門とともに日本三建築に数えられた壮大華麗な建築物でした。なお興正寺に残されたのは1774年(安永3年)建立の鐘楼・1848年(弘化5年)建立の経蔵など僅かな建物だけでした。
★1912年(明治45年)に御影堂、1915年(大正4年)に阿弥陀堂(本堂)が建立されました。伽藍再建の際、西本願寺と同じように阿弥陀堂・御影堂が分かれた伽藍形式に変更されました。
★2018年(平成30年)の大阪府北部地震よって御影堂が構造に歪みが生じ、親鸞聖人の御影は阿弥陀堂に移されたが、2022年(令和4年)に御影堂の工事を完了しました。

【親鸞聖人:興正寺開山】

親鸞聖人は1173年(承安3年)に皇太后宮大進・日野有範と吉光女の長男として生まれました。1181年(治承5年)に叔父・日野範綱に伴われて天台三門跡・青蓮院に入り、その後天台座主・慈円(慈鎮)のもとで得度しました。出家後に延暦寺で20年間修行を続け、天台宗を学びました。1201年(建仁元年)に六角堂(紫雲山頂法寺)に百日参籠し、夢告に従って浄土宗の宗祖・法然上人の門弟になり、浄土教を学びました。1207年(建永2年)に後鳥羽上皇(第82代・後鳥羽天皇)の怒りに触れる承元の法難に連座し、専修念仏が停止され、法然上人と親鸞聖人を含む7名の弟子が流罪になりました。越後(新潟)に配流され、1211年(建暦元年)に勅赦なったが、1212年(建暦2年)に法然上人が亡くなると京都に戻らず、信濃(長野)・下野(千葉)・常陸(茨城)などの約20年間に渡って東国布教を努め、常陸稲田で4年の歳月を掛けて浄土真宗の教義を体系化した「教行信証」を著しました。60歳で帰洛の途につき、62歳頃に帰京し、京都で転々と住居を移して教化と著述に努めました。なお親鸞聖人は1263年(弘長3年)に90歳で亡くなりました。

【興正寺歴史-修学旅行・観光ガイド 備考】
*参考・・・佛光寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ

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