誓願寺の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

誓願寺

誓願寺の歴史を時代別年表で紹介。

誓願寺の歴史を簡単にまとめています。誓願寺は667年(天智天皇6年)に天智天皇の勅願によって奈良に創建されたのが起源とも言われています。誓願寺は当初三論宗の寺院だったが、その後興福寺に属するようになりました。なお誓願寺歴史では時代別に歴史年表にまとめ、重要人物も紹介したりしています。

【前史(興福寺)】

★645年(大化元年)頃に藤原鎌足(ふじわらのかまたり)が釈迦三尊(しゃかさんぞん)像を造仏し、669年(天智天皇8年)に藤原鎌足の妻・鏡大王(かがみのおおきみ)が夫・藤原鎌足の病気平癒の祈願の為、山背国山階陶原(京都府京都市山科区)に興福寺(こうふくじ)の前身である山階寺(やましなでら)を創建しました。

【誓願寺創建(起源・由来)】

★誓願寺は飛鳥時代の667年(天智天皇6年)に第38代・天智天皇(てんじてんのう)の勅願により、恵隠(えおん)が奈良に創建したとも言われています。仏師・賢問子(けんもんし)、芥子国(けんしこく)親子が丈六の阿弥陀仏(あみだぶつ)坐像を造仏し、七堂伽藍が建立されたとも言われています。誓願寺は当初、三論宗(さんろうしゅう)の寺院だったが、その後法相宗(ほっそしゅう)の興福寺に属するようになりました。

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【奈良時代(710年頃~794年頃)の歴史・出来事】

★784年(延暦3年)に誓願寺が山城国乙訓郡に移され、その後山城国相楽郡に移されたとも言われています。

【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】

★794年(延暦13年)の平安京遷都後に山城国紀伊郡深草に移ったとも言われています。
★平安時代中期に「往生要集(おうじょうようしゅう)」を記した天台宗(てんだいしゅう)の僧である恵心僧都(えしんそうず)・源信(げんしん)が誓願寺で善財講を修しました。
★平安時代中期に「誓願寺縁起」によると歌人・和泉式部(いずみしきぶき)が娘を亡くした苦しみから救われる道を求め、兵庫県姫路市の圓教寺(えんぎょうじ・円教寺)の性空上人(しょうくうしょうにん)を訪ね、性空上人から京都府八幡市の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)を参詣して阿弥陀如来に祈るように勧められます。石清水八幡宮で七日七夜、極楽往生(ごくらくおうじょう)の道を祈っていると老僧が宝殿から現れ、誓願寺の本尊は人々を苦しみから救う為に全ての行を修められた阿弥陀様だから一生を掛け極楽往生の道を祈りなさいと告げられます。そして誓願寺に四十八日の間籠もり、一日中ひたすら念仏を称えて往生を願っていると七十歳程の老尼が現れ、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と唱えれば、慈悲の光に照らされて迷いの道が晴れと言われ、髪をおろして尼僧になったと言われています。
★平安時代中期に随筆「枕草子(まくらのそうし)」の筆者・清少納言(せいしょうなごん)が誓願寺で菩提心を起こして尼僧になり、本堂の傍に庵室を結び、その後念仏によって往生をとげたと言われています。
★平安時代末期に浄土宗(じょうどしゅう)の宗祖・法然上人(ほうねんしょうにん)が興福寺の僧・蔵俊僧都(ぞうしゅんそうず)から譲り受け、法相宗から浄土宗に改めました。その後法然上人の高弟である西山上人・善恵房証空(しょうくう・證空)に誓願寺が受け継がれ、西山義の教えを広めて浄土宗西山派が成立しました。なおその後証空の弟子・立信(円空)が誓願寺を受け継ぎ、深草に真宗院を建立し、深草流の教えを確立しました。

【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】

★鎌倉時代以降に不断の念仏道場として、粟生光明寺(こうみょうじ)とともに栄えました。
★鎌倉時代初期に一条小川(上京区元誓願寺通小川西入る)に移りました。
★1276年(建治2年)に時宗(じしゅう)の宗祖である一遍上人(いっぺんしょうにん)が念仏賦算を行ないました。

【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】

★室町時代中期に応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))が起こり、奥堂などが焼失したとも言われています。

【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】

★1573年(天正元年)に織田信長(おだのぶなが)による上京焼討ちによって焼失して荒廃しました。
★1591年(天正19年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が京都改造に伴って寺町を整備した際、誓願寺が豊臣秀吉の命によって現在の場所である三条寺町に移されました。豊臣秀吉の側室・松の丸殿(京極竜子(きょうごくたつこ))とその生家・京極家から土地を寄進され、松の丸殿は伽藍の再建にも尽力したと言われています。誓願寺の移転には木食応其(もくじきおうご)も勧進しました。誓願寺は境内地が六千坪余で、表門が寺町六角、裏門が三条通に面し、本堂・開山堂・釈迦堂・三重塔・地蔵堂二宇・経蔵・鼓楼・方丈・鎮守春日社・十三仏堂などの伽藍が建立され、18ヶ寺の山内寺院(塔頭)も建立されました。なお松の丸殿は1598年(慶長3年)の豊臣秀吉没後に近江大津城を経て、誓願寺に閑居し、1615年(元和元年)の豊臣家の滅亡で処刑された豊臣秀頼(とよとみひでより)の子・国松(くにまつ)の亡骸を引き取り、誓願寺に埋葬したと言われています。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】

★1780年(安永9年)の「都名所図会(みやこめいしょずえ)」によると誓願寺の境内が約6,500坪で、塔頭(たっちゅう)が18ヵ寺あったとされています。なお寺町通の内、三条から四条の間に大小11ヵ寺の寺院があり、盛り場もあったことから寺町一帯は洛中一賑わっていたそうです。
★天明年間(1781年~1789年)・弘化年間(1845年~1848年)・元治年間(1864年~1865年)に大火によって焼失しました。

【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】

★明治維新後の神仏分離令・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)などにより、寺地が縮小されました。誓願寺は6,500坪の寺地の内、4,800余坪の土地を没収されました。また神仏分離令・廃仏毀釈により、1869年(明治2年)に石清水八幡宮から八幡神(はちまんのかみ)の本地仏として安置されていた阿弥陀如来坐像が誓願寺に移され、本尊になりました。
★1876年(明治9年)に誓願寺は浄土宗西山派の北本山になったが、1919年(大正8年)に浄土宗西山派が浄土宗西山光明寺派(西山浄土宗となる)・浄土宗西山禅林寺派・浄土宗西山深草派に分裂しました。
★1904年(明治37年)に塔頭・竹林院(ちくりんいん)にあった松の丸殿(京極竜子)と国松の墓が豊国廟(ほうこくびょう)に移されました。
★1932年(昭和7年)に失火によって本尊・阿弥陀如来像(恵心作)・四天王像(運慶作)などが焼失しました。
★1964年(昭和39年)に現在の本堂が建立されました。

【第38代・天智天皇:誓願寺開基】

第38代・天智天皇は626年(推古天皇34年)に第34代・舒明天皇と第35代・皇極天皇(第37代・斉明天皇)の第2皇子・中大兄皇子として生れました。645年(皇極天皇4年)に中臣鎌足(藤原鎌足)らと謀り、母・皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺し、蘇我入鹿の父・蘇我蝦夷が自害させ、蘇我氏本宗家を滅ぼす乙巳の変を起こし、皇極天皇の同母弟である第36代・孝徳天皇を即位させ、皇太子になって大化の改新を行ないました。660年(斉明天皇6年)に唐と新羅に攻められて百済が滅ぶと滞在していた百済の王子・扶余豊璋を送り返し、百済を救援する為に斉明天皇とともに筑紫の朝倉宮に滞在したが、翌661年(斉明天皇7年)に斉明天皇が崩御し、663年(天智天皇2年)に白村江の戦いで大敗しました。667年(天智天皇6年)に近江大津宮(滋賀県大津市)に遷都し、668年(天智天皇7年)に天智天皇に即位し、同母弟・大海人皇子(第40代・天武天皇)を皇太弟にしました。670年(天智天皇9年)に日本最古の全国的な戸籍「庚午年籍」を作成しました。671年(天智天皇10年)に病気になり、同年10月に重態となったことから大海人皇子に後事を託そうとしたが、大海人皇子は剃髪して僧侶になり、奈良吉野に去りました。なお第38代・天智天皇は672年(天智天皇10年)1月7日に崩御しました。

【誓願寺歴史-修学旅行・観光ガイド 備考】
*参考・・・誓願寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ

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