方広寺の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

方広寺

方広寺の歴史を時代別年表で紹介。

方広寺の歴史を簡単にまとめています。方広寺は1586年(天正14年)に関白・豊臣秀吉が松永久秀の焼き討ちによって焼損した奈良・東大寺の大仏に代わる大仏(盧舎那仏)の造立を発願したのが起源です。なお方広寺歴史では時代別に歴史年表にまとめ、重要人物も紹介したりしています。

【前史(東大寺)】

★1567年(永禄10年)に三好三人衆(三好長逸(みよしながやす)・三好宗渭(みよしそうい)・岩成友通(いわなりともみち))及び大和国郡山城主・筒井順慶(つついじゅんけい)と大和国の戦国大名・松永久秀(まつながひさひで)の間に東大寺大仏殿の戦い(三好・松永の合戦)が起こり、松永久秀の軍勢が大仏殿に陣を構えていた三好勢に夜討ちを仕掛け、二月堂・法華堂・南大門・転害門・鐘楼・正倉院などの伽藍を除き、大仏殿・戒壇院・唐禅院・浄土堂・中門堂などの伽藍が焼失しました。ちなみに興福寺(こうふくじ)やその塔頭(たちゅう)・般若寺(はんにゃじ)なども焼失しました。東大寺では大仏に覆いがなくなって雨ざらしになり、1568年(永禄11年)から大和国山辺郡の土豪・山田道安(やまだどうあん)が仏頭の修繕を始め、1572年(元亀3年)に終わったと言われています。なお東大寺の再興には織田信長(おだのぶなが)・松永久秀・三好長逸も援助をしたが、戦国時代の戦乱によって進みませんでした。

【方広寺創建(起源・由来)】

★初代・大仏(盧舎那仏(るしゃなぶつ))は桃山時代の1586年(天正14年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が大和国の戦国大名・松永久秀(松永弾正(まつながだんじょう))の焼き討ちによって焼損した奈良・東大寺の大仏に代わる大仏の造立を発願したのが起源です。同年4月に豊臣秀吉は京都から大坂への帰途に造営地を東福寺(とうふくじ)南側の遣迎院(けんこういん)付近に選定し、諸大名に用材の運上を命じ、8月に大仏建立の為に明(中国)の工匠・古道が肥前松浦(佐賀)から京都に召出されたが、その後大仏建立は一旦中止になったと言われています。江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)は富士山麓の巨木を黄金千両で京都に運搬し、島津義弘(しまづよしひろ)は屋久島の屋久杉を伐採して京都に運搬したと言われています。1588年(天正16年)に大仏建立が再開され、造営地が佛光寺(ぶっこうじ)が建立されていた三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)北側に変更され、大規模工事に巧みであった木食応其(もくじきおうご)を大仏建立の任にあたらせました。同年5月15日に定礎の儀が行われ、7月5日の豊臣秀吉朱印状(豊公遺文)で諸大名に人足の動員が命ぜられたが、1590年(天正18年)に小田原征伐が行われました。1591年(天正19年)5月から大仏殿の立柱工事が開始され、1592年(天正20年)に朝鮮出兵(文禄・慶長の役)が開始されました。1593年(文禄2年)9月に大仏殿が上棟し、1595年(文禄4年)に初代・大仏(木像)と初代・大仏殿が完成したと言われています。大仏の建立には刀狩りで没収した武器を利用し、大仏の大きさは像高約14.7メートルの東大寺の大仏よりも大きい像高約19メートル(6丈3尺)だったと言われています。ちなみに初代・大仏は膝部分まで鋳造が完了していたが、完成前の事故で一度焼失したとも言われています。なお大仏は日本三大仏に数えられたそうです。
★方広寺は桃山時代の1595年(文禄4年)に大仏(盧舎那仏)を安置する寺院として、木食応其を開山に創建されました。同年9月25日から方広寺の境内に組み込まれた妙法院(みょうほういん)の巨大な経堂で千僧供養が行われました。

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【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】

★1596年(文禄5年)に慶長伏見地震によって初代・大仏(木造)が損壊しました。胸が崩れ、左手が落ち、全身の所々にひび割れが入ったと言われています。豊臣秀吉は「自らの身をも守れないのか」と激怒したとも言われています。翌1597年(慶長2年)に豊臣秀吉が初代・大仏(木造)を破却し、大仏の代わって長野・善光寺(ぜんこうじ)の善光寺如来(阿弥陀三尊(あみださんぞん))を移したが、豊臣秀吉が病に臥したのは善光寺如来の祟りではないかとされ、1597年(慶長2年)8月17日に善光寺如来は善光寺に戻されることになったが、翌8月18日に豊臣秀吉が亡くなりました。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】

★1603年(慶長8年)に2代目・大仏の鋳造中の事故によって初代・大仏殿が焼失しました。
★1607年(慶長12年)に関白・豊臣秀吉の子・豊臣秀頼(とよとみひでより)が2代目・大仏(銅像)と2代目・大仏殿の再建を企図し、1610年(慶長15年)から片桐且元(かたぎりかつもと)を奉行として再建が始まり、同年6月に義演(ぎえん)を導師として大仏殿の地鎮祭が行われ、8月から立柱工事が行われ、翌1612年(慶長17年)1月29日から屋根の瓦葺きが始まりました。
★1612年(慶長17年)に2代目・大仏(銅像)と2代目・大仏殿が完成したと言われています。
★1614年(慶長19年)に「国家安康」・「君臣豊楽」の銘文を刻んだ梵鐘が完成するが、銘文が江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)の「家」と「康」を分断し、豊臣を「君主」とするものとして、方広寺鐘銘事件になり、豊臣家滅亡の発端になりました。1614年(慶長19年)に大坂冬の陣が起こり、1615年(元和元年)に一旦和議が成立したが、その後大坂夏の陣が起り、大坂城が落城して豊臣秀頼・淀殿(よどどの)が自刃しまし、豊臣家が滅亡しました。
★1615年(元和元年)から方広寺は妙法院の管理下に置かれ、妙法院門主が方広寺住職を兼務するようになりました。また同年8月18日に「豊国大明神」の神号を剥奪された豊臣秀吉の霊が「国泰院俊山雲龍大居士」として、豊国神社の本殿から大仏殿後方に建立された五輪塔に移されました。
★1616年(元和2年)にイギリス商館長のリチャード・コックスが方広寺を参詣しました。
★1662年(寛文2年)に寛文近江・若狭地震によって2代目・大仏(銅像)が損壊しました。
★1667年(寛文7年)に3代目・大仏(木造)が建立されました。
★1692年(元禄5年)に東大寺で大仏の開眼供養が行われ、1709年(宝永6年)に東大寺で大仏殿が落慶しました。1709年(宝永6年)から1798年(寛政10年)まで方広寺と東大寺で大仏と大仏殿が双立していました。
★1719年(享保4年)に江戸幕府が朝鮮通信使に大仏の拝観と饗応を予定したが、方広寺が豊臣秀吉が創建し、朝鮮出兵での朝鮮の戦死者の耳鼻を埋葬した耳塚が門前にあることから方広寺への訪問を拒絶しました。なおかつては大仏殿前で朝鮮通信使の饗宴が行われたこともありました。
★1775年(安永4年)に落雷によって2代目・大仏殿の北西隅の枡形(組物)から出火したが、消火によって焼失を免れました。
★1788年(天明8年)の天明の大火によって洛中の大部分が焼失したが、方広寺は焼亡を免れました。
★1798年(寛政10年)に落雷によって3代目・大仏(木造)と2代目・大仏殿が焼失しました。
★1843年(天保14年)に尾張商人を中心とする有志の寄進により、4代目・大仏(木像)と3代目・大仏殿が再建されました。

【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】

★1870年(明治3年)に明治政府によって方広寺の境内の大部分が収公されました。
★1973年(昭和48年)に失火によって4代目・大仏(木造)と3代目・大仏殿が焼失しました。
★2000年(平成12年)に大仏殿の基壇と台座が発掘調査によって検出されました。

【豊臣秀吉:方広寺開基】

豊臣秀吉は1537年(天文6年)に織田信長の足軽(百姓)・木下弥右衛門と美濃の鍛冶・関兼貞の娘・なか(天瑞院)の間に生まれました。尾張国愛知郡中村郷中中村(名古屋市中村区)で生まれたとも言われています。先ず今川氏の家来で、引馬城の支城・頭陀寺城城主・松下之綱に仕え、1554年(天文23年)頃から織田信長に仕えました。1561年(永禄4年)に浅野長勝の養女・北政所(ねね)と恋愛結婚しました。その後数々の戦功を重ねて頭角を現し、1573年(天正元年)に浅井氏が滅亡すると長浜城城主になりました。1582年(天正10年)に明智光秀が織田信長に謀反を起こした本能寺の変後、山崎の戦いで明智光秀を破り、京都の支配権を掌握しました。1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破りました。その後四国・九州・関東・奥羽を平定し、1590年(天正18年)に天下を統一を成し遂げました。ちなみに1585年(天正13年)に関白、翌1586年(天正14年)に豊臣姓を賜って、太政大臣になりました。その後唐入りを目指し、1592年(天正20年)から文禄・慶長の役が始まりました。なお豊臣秀吉は1598年(慶長3年)に伏見城内で亡くなりました。

【方広寺歴史-修学旅行・観光ガイド 備考】
*参考・・・方広寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)wikipedia

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