愛宕念仏寺の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

愛宕念仏寺

愛宕念仏寺の歴史を時代別年表で紹介。

愛宕念仏寺の歴史を簡単にまとめています。なお愛宕念仏寺は766年(天平神護2年)に第45代・聖武天皇の娘である第48代・称徳天皇(第46代・孝謙天皇)が東山松原通の地に創建したのが起源とも言われています。愛宕念仏寺歴史では時代別に歴史年表にまとめ、重要人物も紹介したりしています。

【前史(鴨川・松原通)】

★愛宕念仏寺がかつて流域に建立されていた鴨川(かもがわ)は京都市北区にある標高約896メートルの桟敷ヶ岳(さじきがだけ)を水源とし、上賀茂付近で京都盆地に出て、出町付近で高野川(たかのがわ)と合流してから南流し、下鳥羽付近で京都盆地の西側を流れる桂川(かつらがわ)と合流し、淀川(よどがわ)に注ぐ延長約35キロの淀川水系の一級河川です。
★松原通(まつばらどおり)はかつて平安京の五条大路だったが、桃山時代に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が現在の場所に五条大橋を架けたことから五条通の名前が移りました。松原通はかつて松並木が美しかったことから五条松原通と言われるようになり、名称の由来になりました。なお松原通は東端の清水寺門前から西端の佐井西通の一筋西まで東西に走っています。

【愛宕念仏寺創建(起源・由来)】

★愛宕念仏寺は奈良時代後期の766年(天平神護2年)に第45代・聖武天皇(しょうむてんのう)の娘である第48代・称徳天皇(しょうとくてんのう、第46代・孝謙天皇(こうけんてんのう))が東山松原通の地に創建したのが起源とも言われています。この地は山城国(やましろのくに)愛宕郡(おたぎごうり)と言われ、愛宕の地に最初に建立さた寺院だったことから愛宕寺(おたぎでら)と名付けられました。なお愛宕念仏寺の旧地は京都市東山区松原通大和大路東入る弓矢町になります。

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【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】

★平安時代初期に真言宗(しんごんしゅう)東寺(とうじ)派の末寺になったとも言われています。なお愛宕念仏寺に平安時代初期に真言宗の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)が第60代・醍醐天皇(だいごてんのう)の勅願にって創建したとも言われています。
★平安時代前期の第60代・醍醐天皇の時代(897年(寛平9年)~930年(延長8年))に鴨川の洪水によって伽藍が流出し、愛宕念仏寺が廃寺になったと言われています。その後醍醐天皇の命により、天台宗(てんだいしゅう)の僧である伝燈大法師(でんとうだいほうし)・千観内供(せんかんないぐ)が再興し、真言宗から天台宗に改め、比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)の末寺になったとも言われています。伝燈大法師・千観内供は市聖(いちひじり)とも言われる空也上人(くうやしょうにん)の影響を受け、念仏(ねんぶつ)を唱えていたことから民衆から念仏上人とも言われ、山号も愛宕念仏寺に改められました。愛宕念仏寺は勅願寺(ちょくがんじ)として、七堂伽藍が整備されたと言われています。ちなみに千観内供は一刀三十三礼で、自ら本尊・千手観音(せんじゅかんのん)を刻んだとも言われ、厄除(やくよけ)千手観音として篤く信仰されました。

【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】

★1318年(文保2年)に現在の本堂が再建され、本尊・千手観音(せんじゅかんのん)を安置しています。千手観音は鎌倉時代に造仏され、その眼差しが左右対称ではなく、厳しさと優しさという仏の慈悲の二面性を尊顔の左面・右面に分けて表現され、「慈面・悲面の千手観音」と称されています。
★鎌倉時代以降に愛宕念仏寺が衰微したと言われています。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】

★1711年(宝永8年)に愛宕寺が「山城名勝志(やましろめいしょうし)」に記されています。
★江戸時代中期に仁王門が建立され、金剛力士(こんごうりきし・仁王(におう))像を安置しています。なお愛宕念仏寺は興廃を繰り返し、本堂・仁王門・地蔵堂だけを残すばかりになりました。

【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】

★1922年(大正11年)に松原警察署の設置に伴う区画整理や伽藍の保存の為、3年を掛けて東山区の旧地から現在の場所である右京区に移転しました。
★昭和(1926年~1989年)の太平洋戦争中(1941年~1945年)に無住になりました。
★1950年(昭和25年)のジェーン台風によって大きな被害を受け、荒れ果てて一時廃寺になりました。
★1955年(昭和30年)に仏師で、僧・西村公朝(にしむらこうちょう)が再興しました。西村公朝は天台宗の本山・延暦寺(えんりゃくじ)から再興を命じられ、住職を引き受け、仏師として全国を飛び回りながら愛宕念仏寺を整備したと言われています。
★1980年(昭和55年)から10年掛かりで仁王門の解体修理が始められました。
★1981年(昭和56年)から一般の参拝者が自ら羅漢(らかん)像を彫って奉納する「昭和の羅漢彫り」が始められました。当初、500体が目標だったが、10年後に1,200体に達し、千二百羅漢の寺とも言われるようになりました。なお1,200体の羅漢像は表情が豊かで、訪れる参拝者の心を和ませることから「癒しの寺」として親しまれています。

【第48代・称徳天皇:愛宕念仏寺開基】

第48代・称徳天皇(第46代・孝謙天皇)は718年(養老2年)に第45代・聖武天皇と藤原氏出身で史上初めて人臣から后になった光明皇后(光明子)の子・阿倍内親王として生まれました。聖武天皇と光明皇后の間には基皇子が生まれたが、728年(神亀5年)に早世しました。また聖武天皇と県犬養広刀自の間には安積親王が生まれたが、後ろ盾を持たなかったことから738年(天平10年)に阿倍内親王が立太子され、史上唯一の女性皇太子になりました。744年(天平17年)に安積親王が亡くなり、749年(天平勝宝元年)に父・聖武天皇からの譲位され、阿倍内親王が第46代・孝謙天皇に即位しました。758年(天平宝字2年)に病気の母・光明皇后に仕える為に皇太子・大炊王に譲位し、第47代・淳仁天皇が即位しました。760年(天平宝字4年)に母・光明皇后が亡くなり、その後孝謙上皇が弓削道鏡を寵愛するようになり、764年(天平宝字8年)に孝謙上皇・弓削道鏡と対立した藤原仲麻呂の乱が起こり、淳仁天皇が廃され、孝謙上皇が第48代・称徳天皇に即位しました。その後769年(神護景雲3年)に弓削道鏡が皇位に就くべしという宇佐八幡宮神託事件(道鏡事件)が起こりました。なお第48代・称徳天皇は770年(神護景雲4年)に崩御しました。

【愛宕念仏寺歴史-修学旅行・観光ガイド 備考】
*参考・・・愛宕念仏寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ

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