法住寺歴史-修学旅行・観光ポイント
法住寺の時代別年表と重要人物
法住寺歴史を簡単にマトメてポイント解説します。法住寺は989年(永祚元年)に太政大臣・藤原為光が妻と第65代・花山天皇の女御だった娘・藤原し子(弘徽殿の女御)の菩提を弔う為に創建したのが起源と言われています。なお法住寺歴史では時代別に歴史年表にまとめ、重要人物も紹介したりしています。
【前史(妙法院)】
★788年(延暦7年)に天台宗(てんだいしゅう)の宗祖である伝教大師(でんぎょうだいし)・最澄(さいちょう)が自ら刻んだ薬師如来(やくしにょらい)を本尊とする草庵・一乗止観院(いちじょうしかんいん)を比叡山(ひえいざん)に結び、延暦寺(えんりゃくじ)の起源になりました。その後比叡山上に比叡山三千坊と言われる僧侶の住坊(小寺院)が建てられ、妙法院の起源になりました。
【法住寺創建(起源・由来)】
★法住寺は「日本紀略(にほんきりゃく)」・「扶桑略記(ふそうりゃくき)」などによると平安時代中期の989年(永祚元年)に太政大臣・藤原為光(ふじわらのためみつ)が985年(寛和元年)6月に亡くなった妻・藤原敦敏の娘と985年(寛和元年)7月に亡くなった娘・藤原し子(弘徽殿(こきでんの)の女御)の菩提を弔う為に創建したと言われています。娘・藤原し子は第65代・花山天皇(かざんてんのう)の女御になり、天皇から寵愛されたが、僅か8ヶ月で亡くなりました。法住寺では円融上皇(第64代・円融天皇(えんゆうてんのう))を迎えて豪華な法要が行われました。法住寺の寺域は924年(延長2年)に藤原為光の祖父・藤原忠平(ふじわらのただひら)が創建した法性寺(ほっしょうじ・東福寺(とうふくじ))北方に位置し、北側が七条通よりも更に北方に延び、南側が八条通、東側が法輪寺(ほうりんじ・今熊野観音(いまくまのかんのん))の旧寺域を除いて東山の山裾に及び、西側が現在の大和大路(やまとおおじ)に及ぶ広大な地域に渡り、釈迦堂(しゃかどう)には本尊・金色丈六釈迦如来(しゃかにょらい)や薬師如来(やくしにょらい)・観音菩薩(かんのんぼさつ)・延命菩薩(えんめいぼさつ)・如意輪観音(にょいりんかんのん)、法華三昧堂(ほっけざんまいどう)には普賢菩薩(ふげんぼさつ)、常行三昧堂(じょうぎょうざんまいどう)には阿弥陀(あみだ)世尊が安置されていました。なお藤原為光は現世での栄達を捨て、法住寺で念仏三昧の生活を送り、992年(正暦3年)の死に際し、封戸100戸を寄進しました。藤原為光の死後、その子孫が法住寺を守りました。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】
★1032年(長元5年)に九条邸からの火災によって法住寺が焼失しました。その後約120年間に再建などの記録が残されています。
★1158年(保元3年)に第77代・後白河天皇(ごしらかわてんのう)は僅か在位3年で皇太子・守仁親王(第78代・二条天皇(にじょうてんのう)) に譲位し、法住寺跡に院政を行う院御所の造営を開始し、1161年(永暦2年)に後白河上皇の院御所・法住寺殿(ほうじゅうじどの)が完成し、院政を行ないました。法住寺殿の敷地は平氏の後ろ盾により、十余町の広大な敷地に北殿上御所・北殿下御所・南殿が造営され、南殿には後白河上皇の住まいとして藤原信頼邸が移築され、東小御堂・千手堂なども建立されました。その後1167年(仁安2年)に手狭だった南殿に新たに御所が造営され、更に新御堂・不動堂も建立されました。
★1160年(永暦元年)に後白河上皇が法住寺殿内に延暦寺(えんりゃくじ)の鎮守社・日吉大社(ひよしたいしゃ)を勧請して新日吉神宮(いまひえじんぐう)を創建し、永暦年間(1160年~1161年)に熊野三山から熊野権現(くまのごんげん)を勧請して新熊野神社(いまくまのじんじゃ)を創建し、1163年(長寛元年)に三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)を創建しました。
★1170年(嘉応2年)頃に後白河法皇が法住寺殿内に比叡山にあった妙法院(にょうほういん)を移転させ、法住寺・新日吉神宮を末寺として管理させました。法住寺は妙法院の院家になったとも言われています。
★1176年(安元2年)に後白河法皇の女御・建春門院(平滋子(たいらのしげこ))が亡くなると法住寺殿内に建春門院の御陵として法華堂が建立されました。
★1183年(寿永2年)に法住寺殿が木曽義仲(きそよしなか・源義仲)によって焼き討ちされ、その後後白河法皇は六条西洞院の長講堂に移り住みました。(法住寺合戦)
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】
★1192年(建久3年)に後白河法皇が崩御すると焼失した法住寺殿跡に新たに法華堂が建立され、後白河法皇の御陵に定められました。後白河法皇の遺命により、法住寺合戦で焼失を免れた三十三間堂で葬儀が行われました。なお法住寺は後白河法皇の御陵(法華堂)を守る寺院になりました。
★1249年(建長元年)に建長の大火によって三十三間堂が焼失したが、1266年(文永3年)に後嵯峨上皇(第88代・後嵯峨天皇(ごさがてんのう))が現在の三十三間堂を再建しました。
【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】
★1586年(天正14年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が大和国の戦国大名・松永久秀(まつながひさひで)の焼き討ちによって焼損した奈良・東大寺(とうだいじ)の大仏に代わる大仏の建立を発願し、方広寺(ほうこうじ)を創建すると法住寺は三十三間堂・妙法院などとともに寺域に取り込まれました。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】
★江戸時代に江戸幕府が妙法院を重視すると法住寺は妙法院と一体視され、妙法院の院家として扱われました。
★1701年(元禄14年)から1702年(元禄15年)に大石内蔵助(おおいしくらのすけ)が法住寺に参詣したとも言われています。法住寺には赤穂義士(あこうぎし)の木像が安置され、赤穂義士(赤穂浪士・四十七士)が討ち入りした12月14日に義士会法要が行われています。
★江戸時代末期に法住寺陵が後白河天皇の御陵ではないかと言う学者が現れ、御陵の真下を掘ると天皇の遺骨を納めた石櫃(せきびつ)が見つかったと言われています。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
★明治維新後に法住寺で復活した11月15日の採灯大護摩供は法住寺創建時からの修験(しゅげん)の法流に則っており、戦中も中断することなく行われています。
★明治時代に法住寺が守ってきた後白河天皇法住寺陵と妙法院歴代門跡法親王の墓所が宮内省の管轄になりました。
★明治初期に妙法院の敦宮により、佛光寺(ぶっこうじ)から親鸞(しんらん)ゆかりの阿弥陀如来(あみだにょらい)像・親鸞そば喰いの像が移されました。
★明治時代に寺号が大興徳院(だいこうとくいん)に改められていたが、1955年(昭和30年)に寺号が法住寺に戻されました。
【藤原為光:法住寺開基】
藤原為光は942年(天慶5年)に右大臣・藤原師輔と第60代・醍醐天皇の第10皇女・雅子内親王の九男として生れました。957年(天暦11年)に従五位下に叙され、翌958年(天徳2年)に侍従に任ぜられました。その後左兵衛権佐・右近衛少将・蔵人などを歴任して昇進したが、969年(安和2年)に叔父で、義兄弟の左大臣・源高明が安和の変で失脚すると連座して昇殿を止められたが、まもなく許され、970年(天禄元年)に参議兼左近衛中将として公卿に列しました。その後も権中納言・中納言・大納言などを歴任して昇進したが、977年(貞元2年)に可愛がられていた異母兄の藤原兼通が亡くなると異母兄の藤原兼家と地位を争うようになります。984年(永観2年)に春宮大夫として仕えていた師貞親王が第65代・花山天皇に即位すると天皇の要望により、娘・藤原し子を入内させて寵愛され、花山天皇の外戚として、義弟で、婿の権中納言・藤原義懐とともに重んじられました。985年(寛和元年)に藤原し子が急死すると翌986年(寛和2年)に傷心の花山天皇が出家し、第66代・一条天皇が即位するとその外祖父で、異母兄の藤原兼家が摂政に就任し、摂関就任は挫折しました。その後摂政で、異母兄の藤原兼家が左大臣・源雅信と対抗する為に異母弟の藤原為光と連携を図ったことから986年(寛和2年)に右大臣になり、987年(寛和3年)に従一位に昇叙しました。991年(正暦2年)に藤原兼家の子・藤原道隆の推挙によって太政大臣になりました。なお藤原為光は992年(正暦3年)に亡くなりました。
【法住寺歴史-修学旅行・観光ガイド 備考】
*参考・・・法住寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ