神護寺の歴史は神願寺と高雄山寺が合寺したのが起源
神護寺の時代別年表と重要人物
神護寺は824年(天長元年)に和気清麻呂の五男・和気真綱と六男・和気仲世の要請により、いずれも和気氏ゆかりの河内(大阪)・神願寺と山城(京都)・高雄山寺が合寺し、名称を神護国祚真言寺と改めたのが起源です。なお歴史は修学旅行・観光の為に簡単にマトメています。
【神願寺・高雄山寺】
- 神護寺の起源である2つの寺院の内、神願寺(じんがんじ)は奈良時代後期の781年(天応元年)に和気清麻呂(わけのきよまろ)が国家安泰を祈願して河内(大阪)に創建したと言われています。和気清麻呂は宇佐八幡大神(うさはちまんのおおかみ)の神託を請うた時に「一切経(いっさいきょう)を写し、仏像を作り、最勝王経(さいしょうおうきょう)を読誦して一伽藍を建て、万代安寧を祈願せよ」というお告げを受け、その心願を成就する為に神願寺を創建したと伝えられ、寺号・神願寺もそのことに由来しています。なお神願寺は定額寺(じょうがくじ)だったが、確かな資料が残されていない為、神願寺が建立されていた場所は明確ではありません。
- 神護寺の起源である2つの寺院の内、高雄山寺(たかおさんじ)は神願寺創建と同時期に和気清麻呂が私寺としてを山城(京都)に創建したと言われています。高雄山寺は白雲寺・月輪寺・日輪寺・伝法寺とともに愛宕五寺・愛宕五坊と言われました。愛宕五寺・愛宕五坊の内、現在も残されているのが神護寺に改められた高雄山寺・月輪寺だけです。なお愛宕山一帯では奈良・大安寺(だいあんじ)の僧・慶俊を本願主、和気清麻呂を奉行として修行の道場が拓かれました。
- 799年(延暦18年)に和気清麻呂が亡くなると高雄山寺(神護寺)の境内に和気清麻呂の墓が建立され、和気氏の菩提寺としての性格が強まりました。
- 802年(延暦21年)に和気清麻呂の五男・和気真綱(わけのまつな)と六男・和気仲世(わけのなかよ)が伯母・和気広虫(わけのひろむし)の三周忌供養の為、比叡山(ひえいざん)で修行していた天台宗(てんだいしゅう)の宗祖である伝教大師(でんぎょうだいし)・最澄(さいちょう)に高雄山寺(神護寺)で「法華経(ほけきょう)」の講演を依頼しました。
- 805年(延暦24年)に伝教大師・最澄が遣唐使として派遣されていた唐(中国)から帰国し、高雄山寺(神護寺)に灌頂壇(かんちょうだん)を設けました。
- 809年(大同4年)に真言宗(しんごんしゅう)の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)が高雄山寺(神護寺)に入山しました。
【神護寺の起源・始まり】
- 神護寺は824年(天長元年)に和気清麻呂の五男・和気真綱と六男・和気仲世の要請により、いずれも和気氏ゆかりの神願寺と高雄山寺が合寺し、名称を神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)と改めたのが起源です。神護寺は定額寺に列せられました。なお神護寺は一切を弘法大師・空海に付嘱され、真言宗の寺院になりました。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】
- 835年(承和2年)に弘法大師・空海が高野山で亡くなると真済(しんぜい)が後を継いで、神護寺の伽藍を整備しました。
- 994年(正暦5年)に火災に見舞われました。
- 1149年(久安5年)に火災に見舞われました。鳥羽法皇(第74代・鳥羽天皇(とはてんのう))の怒りに触れ、神護寺が全山壊滅の状態になったと言われています。本尊・薬師如来(やくしにょらい)が風雨に晒される惨状だったと言われています。
- 1168年(仁安3年)に文覚(もんがく)が草庵を結び、薬師堂を建立して本尊・薬師如来を安置しました。また弘法大師・空海の住坊跡に納凉殿を建立し、不動堂などを再建しました。なお文覚は1173年(承安3年)に後白河法皇(第77代・後白河天皇(ごしらかわてんのう))に荘園の寄進を強要したことから伊豆に流され、その後鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(みなもとのよりとも)に平氏打倒を迫ったことから許されました。文覚は1182年(寿永元年)に再び後白河法皇に直訴し、荘園を寄進され、神護寺再興を再開しました。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】
- 1190年(文治6年)2月に後白河法皇が神護寺に行幸しました。
- 1202年(建仁2年)に文覚が後鳥羽上皇(第82代・後鳥羽天皇(ごとばてんのう))によって佐渡に流され、その後神護寺に戻ったが、1204年(建仁4年)に対馬に再び流され、1205年(元久2年)に対馬で亡くなりました。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】
- 室町時代中期に応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))により、神護寺が焼失したと言われています。
- 文明年間(1469年~1487年)に神護寺が仁和寺(にんなじ)の末寺になったと言われています。
【戦国時代(1493年頃~1590年頃)の歴史・出来事】
- 天文年間(1532年~1555年)に兵火にり、神護寺の伽藍が全て焼失しました。
【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】
- 天正年間(1573年~1592年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)から神護寺に寺領が寄進されました。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】
- 1601年(慶長6年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)から神護寺に旧来の寺領1,500町歩が返還されました。
- 1615年(元和元年)に讃岐屋島寺・龍厳上人が入山し、龍厳上人に帰依した京都所司代・板倉勝重(いたくらかつしげ)が奉行になって神護寺再興に着手しました。江戸時代中期に堂宇7・支院9・僧坊15を数えるまでに再興しました。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
- 明治維新後の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、神護寺の寺域が分割されて解体され、支院9・僧坊15が消失し、別院2ヶ寺と末寺が全て他寺に移されました。
- 1935年(昭和10年)に山口玄洞(やまぐちげんどう)の寄進により、現在の金堂・多宝塔などが再建され、旧堂も修復されました。
- 1952年(昭和27年)に政府から寺領の一部が境内地として返還されました。
【神護寺の開基とされる和気清麻呂】
和気清麻呂は733年(天平5年)に磐梨別乎麻呂の子として備前国藤野郡(岡山県和気町)に生まれました。第47代・淳仁天皇に仕え、恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱の功により、765年(天平神護元年)に勲六等に授けられ、766年(天平神護2年)に従五位下に叙されました。769年(神護景雲3年)に第48代・称徳天皇が寵愛していた道鏡が宇佐八幡の神託と称して皇位に就こうとした宇佐八幡宮神託事件の際、道鏡の野心を退けました。しかし道鏡の怒りを買って大隅に流されました。770年(宝亀元年)に称徳天皇が崩御し、第49代・光仁天皇が即位すると道鏡が失脚し、和気清麻呂は都に戻され、和気朝臣の姓を賜わり、781年(天応元年)に従四位下に叙されました。その後民部大輔・摂津大夫などを歴任し、796年(延暦15年)に従三位に昇叙されました。和気清麻呂は長岡京の造営が停滞すると桓武天皇に平安京遷都を進言しました。なお和気清麻呂は799年(延暦18年)に亡くなりました。
【神護寺 備考】
*参考・・・神護寺(歴史・見どころ・・・)ホームページ