二尊院の歴史は慈覚大師・円仁が華台寺を創建したのが起源
二尊院の時代別年表と重要人物
二尊院の歴史は承和年間(834年~848年)に第3代天台座主である慈覚大師・円仁が嵯峨天皇の勅願により、華台寺を創建したのが起源とも言われています。「発遣の釈迦」と「来迎の阿弥陀」が寺号・二尊院の由来になりました。なお歴史は修学旅行・観光の為に簡単にマトメています。
【前史(蓮台野)】
★二尊院が建立されている嵐山・嵯峨野は平安時代に貴族の別荘地になり、古くから歌枕として多くの和歌などに詠まれる景勝地でした。
【二尊院創建(起源・由来)】
★二尊院は平安時代初期の承和年間(834年~848年)に第3代天台座主(てんだいざす)である慈覚大師(じかくだいし)・円仁(えんにん)が第52代・嵯峨天皇(さがてんのう)の勅願により、華台寺(かだいじ)を創建したのが起源とも言われています。二尊院は当初、天台宗(てんだいしゅう)・真言宗(しんごんしゅう)・律宗(りっしゅう)・浄土宗(じょうどしゅう)の四宗兼学だったが、江戸時代後期から天台宗に属し、「嵯峨三名跡」に数えられました。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の出来事】
★平安時代後期に小倉百人一首の撰者で、歌人・藤原定家(ふじわらのていか)の小倉山荘「時雨亭(しぐれてい)」が小倉山山腹で、二尊院や南側の常寂光寺(じょうじゃっこうじ)周辺にあった言われ、藤原定家が「時雨亭」で小倉百人一首を選んだと言われています。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の出来事】
★鎌倉時代初期に浄土宗(じょうどしゅう)の宗祖・法然上人(ほうねんしょうにん)が二尊院に住して法を説き、関白・九条兼実(くじょうかねざね)らから信望を集めて栄えました。九条兼実の命により、絵師・宅間法眼が描いた「法然上人足曳きの御影」は現存する法然上人の御影の中で、最古の御影とも言われています。なお二尊院は嵯峨門徒の拠点になりました。
★鎌倉時代に二尊院3世・湛空上人(たんくうしょうにん)が第83代・土御門天皇(つちみかどてんのう)、第88代・後嵯峨天皇(ごさがてんのう)の戒師になり、二尊院4世・叡空上人(えいくうしょうにん)が第89代・後深草天皇(ごふかくさてんのう)、第90代・亀山天皇(かめやまてんのう)、第91代・後宇多天皇(ごうだてんのう)、第92代・伏見天皇(ふしみてんのう)の戒師になりました。湛空上人は二尊院を再興したとも言われています。なお三帝陵には土御門天皇、後嵯峨天皇、亀山天皇の分骨を安置しています。
★鎌倉時代にいずれも本尊で、「発遣の釈迦(ほっけんのしゃか)」と言われる釈迦如来(しゃかにょらい)立像(重要文化財)と「来迎の阿弥陀(らいごうのあみだ)」と言われる阿弥陀如来(あみだにょらい)立像(重要文化財)が造仏され、二如来が寺号・二尊院の由来になりました。
★1227年(嘉禄3年)の嘉禄の法難(かろくのほうなん)が起こり、法然上人の遺骸を天台宗の僧兵から守る為、法然廟所から二尊院に移されたと言われています。なお法然上人の遺骸は粟生(あおう)の光明寺(こうみょうじ)に移され、荼毘(だび)に付されたとも言われています。
【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の出来事】
★1339年(延元4年・暦応2年)に室町幕府初代将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)が南朝初代で、第96代・後醍醐天皇(ごだいごてんのう)を弔う為に天龍寺(てんりゅうじ)を創建した際、天龍寺の前身である離宮・亀山殿(かめやまどの)から内仏院・浄金剛院が二尊院に移されたとも言われています。
★南北朝時代から二尊院は遣迎院(けんこういん)・廬山寺(ろざんじ)・般舟院(はんじゅいん)とともに黒戸四ヶ院に数えられ、御所内の仏殿である御黒戸(おくろど)を守りました。その為境内には旧宮家である鷹司家(たかつかさけ)・二条家・三条家・四条家・三条西家・嵯峨家の墓所があります。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の出来事】
★室町時代中期に応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))が起こり、伽藍が全焼しました。
★1521年(永正18年)に三条西実隆(さんじょうにしさねたか)が本堂・唐門(勅使門)を再建しました。本堂には第105代・後奈良天皇(ごならてんのう)宸筆の勅額「二尊院」が掛けられています。唐門(勅使門)には第104代・後柏原天皇(ごかしわばらてんのう)宸筆である勅額「小倉山」が掛けられています。
★室町時代末期に法然上人廟でもある湛空上人廟 (京都市指定有形文化財)が建立されました。碑は鎌倉時代の1253年(建長5年)に宋(中国)の石工によって彫られたとも言われています。
【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の出来事】
★慶長年間(1596年~1615年)に鐘楼が再建されました。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の出来事】
★1613年(慶長18年)に角倉了以(すみのくらりょい)が伏見城の薬医門(やくいもん)を貰い受け、二尊院に寄進・移築して総門(京都市指定有形文化財)が建立されました。なお境内には角倉了以・角倉素庵(すみのくらそあん)父子の墓所があります。
★江戸時代前期に第108代・後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の第6皇女・賀子内親王の御化粧之間が造営され、その後二条家に経て二尊院に移築され、茶室「御園亭」が建てられました。
★江戸時代後期から天台宗に属するようになり、嵯峨三名跡に数えられました。
【明治時代以降(1868年頃~)の出来事】
★明治維新まで黒戸四ヶ院として、宮中の仏事を司りました。なお1876年(明治9年)に京都御所の御黒戸に安置されていた念持仏が泉涌寺(せんにゅうじ)の海会堂に移され、諸寺院に祀られていた尊碑も泉涌寺に合祀されました。
★2016年(平成28年)に平成の大改修で本堂が再建されました。
【二尊院の開山とされる慈覚大師・円仁】
慈覚大師・円仁は794年(延暦13年)に下野国(栃木)に生まれました。808年(大同3年)に唐(中国)から帰国した天台宗の宗祖である伝教大師・最澄に師事し、最澄最期の14年間に仕えました。814年(弘仁5年)に言試に合格し、翌815年(弘仁6年)に得度しました。816年(弘仁7年)に奈良・東大寺で具足戒を受け、822年(弘仁13年)に最澄から一心三観の妙義を授けられ、その後最澄は亡くなりました。829年(天長6年)から横川に隠棲して苦修練行を続け、838年(承和5年)に最後の遣唐使として唐(中国)に渡りました。円仁は入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・恵運・円珍・宗叡)に数えられました。840年(承和7年)に中国五台山を巡礼して最高峰の標高3,058メートルの北台叶斗峰に登り、その後大興善寺の元政から灌頂を受け、青竜寺の義真からも灌頂を受けました。847年(承和14年)に仏典「金剛界曼荼羅」などを持って帰国し、848年(嘉祥元年)に比叡山に戻り、854年(斉衡元年)に第3代天台座主に就きました。なお慈覚大師・円仁は864年(貞観6年)2月24日に亡くなりました。
【二尊院 備考】
*参考・・・二尊院(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ