晴明神社の歴史-修学旅行・観光の簡単解説

晴明神社(Seimei Shrine)

晴明神社の歴史を時代別年表にまとめ

晴明神社の歴史を簡単にまとめています。晴明神社は1007年(寛弘4年)に一条天皇の命により、安倍晴明の遺業を讃え、その屋敷跡に社殿を建立したのが起源です。桃山時代に隣接して茶人・千利休の聚楽屋敷が造営されました。(時代別年表・重要人物下記参照)

晴明神社見どころ(本殿・厄除桃など)

【陰陽師・安倍晴明】

  • 1005年(寛弘2年)10月31日(旧暦9月26日)に陰陽師(おんみょうじ)・安倍晴明(あべのせいめい)が85歳で亡くなりました。安倍晴明は第61代・朱雀天皇(すざくてんのう)、第62代・村上天皇(むらかみてんのう)、第63代・冷泉天皇(れいぜいてんのう)、第64代・円融天皇(えんゆうてんのう)、第65代・花山天皇(かざんてんのう)、第66代・一条天皇(いちじょうてんのう)の6代の天皇に側近として仕えました。

【晴明神社の起源・始まり】

  • 晴明神社は平安時代中期の1007年(寛弘4年)に一条天皇の命により、安倍晴明の遺業を讃え、その屋敷跡に社殿を建立したのが起源です。晴明神社は創建時に北側が元誓願寺通・南側が中立売通・東側が堀川通・西側が黒門通を面し、南北二町・東西一町という広大な社地を有していました。
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【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】

  • 室町時代中期に応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))が起こり、晴明神社の社殿が焼失したと言われています。

【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】

  • 安土桃山時代に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命により、晴明神社の社地が縮小されました。社殿が荒廃したと言われています。
  • 安土桃山時代に晴明神社に隣接して茶人・千利休(せんのりきゅう)の聚楽屋敷が造営されました。聚楽屋敷は1586年(天正14年)に豊臣秀吉が聚楽第(じゅらくてい)を造営した際にその周囲に千利休が屋敷を構えたものです。聚楽屋敷には色付九間書院があり、上段の柱(太閤柱)に豊臣秀吉がもたれ、中段の突上窓から名残の月を眺めたと言われています。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】

  • 1853年(嘉永6年)以降に晴明神社が再興されたとも言われています。

【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】

  • 明治維新後の神仏分離令・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、晴明神社が荒廃した言われています。
  • 本殿は1905年(明治38年)に再建されました。
  • 1950年(昭和25年)に堀川通まで晴明神社の社地が拡張されました。
  • 2003年(平成15年)に晴明神社で鎮座1千年祭が行われました。
  • 2017年(平成29年)に二の鳥居の社号額が新調されました。社号額は幕末(江戸時代末期)の1854年(安政元年)に土御門晴雄が奉納したものを忠実に再現したものです。

【晴明神社の祭神とされる安倍晴明】

安倍晴明は921年(延喜21年)に大膳大夫・安倍益材または淡路守・安倍春材の子として摂津国阿倍野(大阪市阿倍野区)または大和安倍(国奈良県桜井市安倍)に生まれたとも言われています。また右大臣・阿倍御主人の子孫とも、遣唐留学生・阿倍仲麻呂の子孫とも言われています。陰陽師である賀茂忠行・賀茂保憲に陰陽道を学び、天文道を伝授されたと言われています。948年(天暦2年)に大舎人になり、960年(天徳4年)に天文得業生になり、第62代・村上天皇に占いを命じられ、970年(安和3年・天禄元年)頃に天文博士になりました。977年(貞元2年)に賀茂保憲が亡くなると頭角を現し、979年(天元2年)に皇太子・師貞親王(第65代・花山天皇)の命で和歌山・那智山の天狗を封ずる儀式を行いました。993年(正暦4年)に病気になった第66代・一条天皇の禊を奉仕し、回復したことから正五位上に叙され、1004年(寛弘元年)に干ばつが続いたことから第66代・一条天皇の命によって雨乞いの五龍祭を行うと雨が降り、贈り物である被物を賜りました。息子である安倍吉昌・安倍吉平も天文博士・陰陽助になり、安倍氏は賀茂氏と並ぶ陰陽道の家としての地位を確立しました。なお安倍晴明は1005年(寛弘2年)に亡くなりました。

【晴明神社 備考】
*参考・・・晴明神社(歴史・見どころ・・・)ホームページ

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