青蓮院の歴史は伝教大師・最澄が建てた僧侶の住坊・青蓮坊が起源
青蓮院の時代別年表と重要人物
青蓮院の歴史は788年(延暦7年)に伝教大師・最澄が延暦寺を創建した際、比叡山東塔の南谷に建てた僧侶の住坊である青蓮坊が起源です。青蓮坊は慈覚大師・円仁などの住居になり、東塔の主流をなす住坊になりました。なお歴史は修学旅行・観光の為に簡単にマトメています。
【比叡山】
- 比叡山(ひえいざん)は古代から地主神・大山咋神(おおやまくいのかみ)が鎮座する神山として崇められていました。その後比叡山では藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)が父・藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)の為に宝殿を建立して修行したとも、天台宗(てんだいしゅう)の宗祖である伝教大師(でんぎょうだいし)・最澄(さいちょう)の父・三津首百枝(みつのおびとももえ)が草庵を結び、男児誕生を祈願したとも言われています。
【青蓮院の起源・始まり】
- 奈良時代後期の788年(延暦7年)に伝教大師・最澄が自ら刻んだ薬師如来(やくしにょらい・薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい))を本尊とする延暦寺(えんりゃくじ)の前身である草庵・一乗止観院(いちじょうしかんいん)を比叡山に結びました。青蓮院は伝教大師・最澄が僧侶の住坊を幾つも建て、比叡山東塔の南谷に建てた住坊のひとつである青蓮坊が起源と言われています。なお青蓮院はいずれも比叡山に建てられた住坊を起源とする三千院(さんぜんいん)・妙法院(みょうほういん)とともに天台宗の三門跡寺院に数えられました。また曼殊院(まんしゅういん)・毘沙門堂(びしゃもんどう)を加え、天台宗の京都五箇室門跡にも数えられました。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の出来事】
- 平安時代前期に青蓮院は伝教大師・最澄から延暦寺の法燈を継いだ第3代天台座主(てんだいざす)である慈覚大師(じかくだいし)・円仁(えんにん)、第4代天台座主である安慧(あんえ・安恵)、建立大師(こんりゅうだいし)・相応(そうおう)などの住坊になり、比叡山東塔の主流をなす住坊になりました。
- 1142年(永治2年)に鳥羽上皇(第74代・鳥羽天皇(とばてんのう))が青蓮院に一時滞在したと言われています。
- 1150年(久安6年)に鳥羽上皇の后・美福門院(びふくもんいん・藤原得子(ふじわらのとくし))の祈願所になりました。
- 平安時代末期に青蓮坊(青蓮院)12代・行玄大僧正(ぎょうげんだいそうじょう)が鳥羽法皇から帰依され、鳥羽法皇の第7皇子・覚快法親王(かくかいほっしんのう)が入寺すると門跡寺院になり、法皇の御所に準じて京都・三条白川に伽藍が建立され、寺号が青蓮院に改められました。行玄大僧正が初代門主、覚快法親王が第2代門主になりました。なお比叡山上の青蓮坊は室町時代に廃絶になったと言われています。
- 平安時代末期から鎌倉時代前期の第3代門主・慈圓(慈鎮和尚)の時代に青蓮院が最も隆盛を極めました。慈圓は4度も天台座主を勤め、史論書として名高い「愚管抄(ぐかんしょう)・1220年(承久2年)頃成立」を著したり、歌人として私家集「拾玉集(しゅうぎょくしゅう)」を残しました。慈圓は勅撰和歌集「新古今和歌集(しんこきんわかしゅう)・鎌倉時代初期編纂」に西行(さいぎょう)の94首に次ぐ、91首も収められています。
- 1181年(治承5年)に浄土真宗(じょうどしんしゅう)の宗祖である親鸞聖人が第3代門主・慈圓のもとで出家・得度しました。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の出来事】
- 1194年(建久5年)に比叡山上の青蓮坊が焼失したと言われています。
- 鎌倉時代に三条白川から鴨川の氾濫を避ける為に青蓮院が現在の場所に移りました。
- 1216年(建保4年)に焼失したと言われています。
- 鎌倉時代前期に青蓮院が三千院と並ぶ門跡寺院としての地位が確立されたとも言われています。
【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の出来事】
- 1392年(元中9年・明徳3年)に室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)の子で、室町幕府6代将軍・足利義教(あしかがよしのり)となる義圓(義円)が青蓮院に入寺しました。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の出来事】
- 1403年(応永10年)に義圓が門主になりました。
- 室町時代中期に応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))により、青蓮院が西軍に焼き討ちされたと言われています。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の出来事】
- 1608年(慶長13年)に江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)が知恩院(ちおんいん)を整備・拡充した際、青蓮院の寺域が削減されました。
- 1699年(元禄12年)に東大谷廟(大谷祖廟)が再興された際、青蓮院の寺域が削減されました。
- 1788年(天明8年)に御所が火災に見舞われた際、後桜町上皇(第117代・後桜町天皇(ごさくらまちてんのう))が青蓮院を仮御所として避難しました。粟田御所(あわたごしょ)とも言われています。
【明治時代以降(1868年頃~)の出来事】
- 明治維新後の神仏分離令・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、粟田神社(あわたじんじゃ)の本地仏・薬師如来(やくしにょらい)が青蓮院に移されました。上知令によって寺域が減少しました。
- 1893年(明治26年)に火災によって青蓮院の伽藍の多くが焼失しました。その後再建が開始されました。
- 1993年(平成4年)4月25日に放火によって茶室・好文亭が焼失し、2年後の1995年(平成7年)に再建されました。
- 2005年(平成17年)に青蓮院創建以来初めて本尊・熾盛光如来がご開帳されました。
- 2009年(平成21年)に青不動明王二童子像がご開帳されました。
【青蓮院の開山とされる伝教大師・最澄】
伝教大師・最澄は767年(神護景雲元年)に近江国滋賀郡(滋賀県大津市)の豪族・三津首百枝の長男として生まれました。778年(宝亀9年)に近江国分寺で出家して行表の弟子になり、780年(宝亀11年)に得度しました。785年(延暦4年)に奈良・東大寺で具足戒を受け、788年(延暦7年)に比叡山に草庵を結び、根本中堂となる一乗止観院を創建しました。797年(延暦16年)に第50代・桓武天皇の内供奉十禅師になり、802年(延暦21年)に入唐求法の還学生に選ばれ、804年(延暦23年)に真言宗の宗祖である弘法大師・空海らとともに入唐し、中国・天台山で道邃・行満らに師事し、円・密・禅・戒の諸教を受け、805年(延暦24年)に帰国し、密教を伝える為に高雄山寺(神護寺)に灌頂壇を設け、806年(大同元年)に天台宗の開創が許されました。819年(弘仁10年)に比叡山に大乗戒壇建立を奏上したが、南都六宗の反対で許されず、822年(弘仁13年)に亡くなりました。死後7日目に大乗戒壇建立の勅許が下り、866年(貞観8年)に第56代・清和天皇から諡号・伝教大師が贈られました。
【青蓮院 備考】
*参考・・・青蓮院(歴史・見どころ・・・)ホームページ