勧修寺の歴史は醍醐天皇が母の追善に寺院を建立したのが起源
勧修寺の時代別年表と重要人物
勧修寺は900年(昌泰3年)に醍醐天皇が母・藤原胤子の追善の為、その兄弟・藤原定方に命じ、その祖父・宮道弥益の邸跡を承俊律師を開山として寺院に改めたのが起源です。寺号・勧修寺は胤子の父・藤原高藤の諡号に由来します。なお歴史は修学旅行・観光の為に簡単にマトメています。
【勧修寺が建立されている場所】
- 勧修寺が建立されている場所は宮道弥益(みやじいやます)の邸が造営されていた場所です。宮道弥益は山城国宇治郡(京都市山科区)の郡司でした。宮道弥益の娘・宮道列子は藤原北家の流れを汲む内大臣・藤原高藤(ふじわらのたかふじ)の妻になり、藤原胤子(ふじわらのいんし・ふじわらのたねこ)・藤原定方(ふじわらのさだかた)・藤原定国を生みました。
- 884年(元慶8年)頃に藤原胤子が第59代・宇多天皇(うだてんのう)となる源定省(みなもとのさだみ)の女御になり、885年(元慶9年)に第60代・醍醐天皇(だいごてんのう)となる源維城(みなもとのこれざね)を生みました。
- 887年(仁和3年)に源定省が皇籍復帰して第59代・宇多天皇に即位し、893年(寛平5年)に第60代・醍醐天皇が立太子し、897年(寛平9年)に第60代・醍醐天皇が元服して天皇に即位しました。
【勧修寺の起源・始まり】
- 勧修寺は平安時代中期の900年(昌泰3年)に第60代・醍醐天皇が若くして亡くなった生母・藤原胤子の追善の為、藤原胤子の同母兄弟で、右大臣・藤原定方に命じ、藤原胤子の祖父・宮道弥益の邸跡を法相宗(ほっそしゅう)の僧・承俊律師(しょうしゅんりっし)を開山として寺院に改めたのが起源と言われています。勧修寺の寺号は藤原胤子の父・藤原高藤の諡号(しごう)に由来しています。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】
- 903年(延喜3年)に第60代・醍醐天皇が勧修寺に行幸し、生母・藤原胤子の冥福を祈ったと言われています。
- 905年(延喜5年)に勧修寺が定額寺(じょうがくじ)に列せられたと言われています。太政官符に「贈皇后(藤原胤子)が生前に建立した」という記述があり、勧修寺は藤原胤子が亡くなった896年(寛平8年)以前に創建されていたとも言われています。
- 1110年(天永元年)に寛信が勧修寺7世長吏になり、その後真言宗小野流の一派である勧修寺流の祖とされました。
【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の歴史・出来事】
- 1336年(建武3年)に「勧修寺寺領目録」によると寺領は加賀国郡家荘・三河国・備前国など18か荘を有していました。
- 南北朝時代に第93代・後伏見天皇(ごふしみてんのう)の第7皇子・寛胤法親王(かんいんほうしんのう)が勧修寺15世長吏になり、宮門跡寺院になりました。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】
- 室町時代中期に応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))が起こり、1470年(文明2年)に勧修寺が焼失して衰退したと言われています。
【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】
- 安土桃山時代に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が伏見街道を整備した際、勧修寺の境内が削減されて氷室池の南側を埋め立てられ、その後衰微しました。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】
- 1682年(天和2年)に第112代・霊元天皇(れいげんてんのう)の皇子・済深法親王(さいしんほっしんのう)が入寺して勧修寺29世長吏になり、皇室・徳川家の援助によって復興されました。済深法親王は奈良・東大寺大仏殿の再建に功があり、寺領が1,012石に加増されました。
- 江戸時代中期に尊孝法親王が勧修寺30世長吏になりました。尊孝法親王の叔母・真宮理子(さなのみやまさこ)が紀州藩出身である江戸幕府8代将軍・徳川吉宗(とくがわよしむね)の正室であったことから紀伊国の約100か寺が勧修寺の末寺になりました。
- 江戸時代中期に第109代・明正天皇(めいしょうてんのう)、第112代・霊元天皇などの旧殿を賜り、本堂・宸殿・書院などが建立されました。
【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】
- 1871年(明治4年)に三門跡制(宮門跡・摂家門跡・准門跡)が廃止されたが、1885年(明治18年)に勧修寺が旧門跡の復称が許されました。
- 1951年(昭和26年)にかつて勧修寺の塔頭寺院が建立されていた場所に大石順教が塔頭・仏光院を建立しました。
【勧修寺の開基とされる第60代・醍醐天皇】
醍醐天皇は885年(元慶9年)に第59代・宇多天皇と女御・藤原胤子の皇子として生まれました。宇多天皇は臣籍に降下して源定省と称していたことから源維城として生まれました。887年(仁和3年)に父が皇籍復帰して宇多天皇に即位すると皇族に列しました。893年(寛平5年)に立太子し、897年(寛平9年)に13歳で元服して醍醐天皇に即位しました。父から帝王の心得を記した「寛平御遺誡」を与えられ、それに従って左大臣・藤原時平と右大臣・菅原道真を重用して政務を任せました。しかし901年(昌泰4年)に藤原時平の讒言によって菅原道真が大宰府に左遷される昌泰の変が起こると藤原時平を重用しました。醍醐天皇の治世は形式上摂関を置かずに天皇親政で、後世に「延喜の治」と称されました。醍醐天皇は治世中に国史「日本三代実録」・勅撰和歌集「古今和歌集」・三代格式「延喜格式」を編纂させました。930年(延長8年)7月に菅原道真の祟りとも言われる清涼殿落雷事件が起こると体調を崩し、10月16日に皇太子・寛明親王(第61代天・朱雀天皇)に譲位し、7日後の10月23日に出家とともに崩御しました。
【勧修寺 備考】
*参考・・・勧修寺(歴史・見どころ・・・)