海住山寺歴史-修学旅行・観光ポイント
海住山寺の時代別年表と重要人物
海住山寺歴史を簡単にマトメてポイント解説します。海住山寺は735年(天平7年)に第45代・聖武天皇が大仏造立平安祈願の為、東大寺初代別当・良弁僧正に命じ、十一面観音菩薩を安置し、藤尾山観音寺と称したのが起源と言われています。なお海住山寺歴史では時代別に歴史年表にまとめ、重要人物も紹介したりしています。
【前史(瓶原)】
★海住山寺が建立されている場所は笠置の山峡が開け、木津川の流れが緩やかになり、甕に似た地形から瓶原と言われています。この地は奈良時代のに第43代・元明天皇(げんめいてんのう)が離宮を設け、その後第45代・聖武天皇(しょうむてんのう)が橘諸兄(たちばなのもろえ)に命じて大養徳宮恭仁大宮を営ませられた場所でもあります。なお海住山寺は瓶原を一望できる海住山中腹に建立されています。
【海住山寺創建(起源・由来)】
★海住山寺は寺伝によると奈良時代前期の735年(天平7年)に第45代・聖武天皇が大仏造立平安祈願の為、奈良・東大寺(とうだいじ)初代別当・良弁僧正(ろうべんそうじょう・りょうべんそうじょう)に命じ、十一面観音菩薩(じゅういちめんかんのんぼさつ)を安置し、藤尾山観音寺と称したのが起源と言われています。聖武天皇は平城京(へじょうきょう)の鬼門にあたる場所に寺院を創建すれば、大仏造立が無事成就するという夢告を受けたとも言われています。また良弁僧正は感得した十一面観音菩薩を本尊としたと言われています。なお歴史的な史実は743年(天平15年)に聖武天皇が大仏建立の詔を発し、滋賀甲賀市信楽町の紫香楽宮(しがらきのみや)で大仏の造立が開始されたが、745年(天平17年)に恭仁京から平城京に遷都され、東大寺で大仏造立が開始されました。
【奈良時代(710年頃~794年頃)の出来事】
★773年(宝亀4年)に「興福寺官務牒疏(こうふくじかんむちょうそ)・1441年(嘉吉元年)」によると左大臣・藤原永手(ふじわらのながて)が再興したとも言われています。また海住山寺は聖武天皇の勅願により、良弁僧正が創建したとも記されています。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の出来事】
★1137年(保延3年)に海住山寺は全山焼失し、衰微したと言われています。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の出来事】
★1208年(承元2年)に解脱上人(げだつしょうにん)・貞慶(じょうけい)が草庵を結んで中興し、寺号を観音寺から補陀落山(ふだらさん)海住山寺に改めました。解脱上人・貞慶は海住山寺を菩薩道実践の場所と定め、観音の浄土に因んで、山号・寺号を補陀洛山海住山寺と名付けました。なお補陀洛山は南海にあると言われる観音菩薩の浄土の名称です。
★1213年(建暦3年)に解脱上人・貞慶が亡くなり、弟子である慈心上人(じしんしょうにん)・覚真(かくしん・藤原長房(ふじわらのながふさ))が後を継ぎ、戒律を厳しくして寺観を整備しました。
★1214年(建保2年)に慈心上人・覚真が師である解脱上人・貞慶の一周忌に際、解脱上人・貞慶が第82代・後鳥羽天皇(ごとばてんのう)から拝領した京都・東寺(とうじ)、奈良・唐招提寺(とうしょうだいじ)の仏舎利(ぶっしゃり)7粒を納める為に五重塔を建立しました。
★1225年(元仁2年)の解脱上人・貞慶13回忌に文殊堂が経蔵として建立されたとも言われています。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の出来事】
★1457年(康正3年)に本堂、1459年(長禄3年)に釈迦堂・五重塔が修理されたと言われています。
★室町時代に塔頭(たっちゅう)が58ヶ坊あったと言われています。東大寺の宗性上人が住持した十輪院がよく知られています。
【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の出来事】
★天正年間(1573年~1592年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)による検地により、寺領を失って経済的な痛手を受けたと言われています。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の出来事】
★1662年(寛文2年)に本堂が修理されたと言われています。
★1663年(寛文3年)に鐘楼が再建されました。
★1718年(享保3年)に山門が再建されました。
★江戸時代に本坊表門・天満宮・春日社・稲荷社が再建されました。
★1868年(年)に山津波で旧本堂が倒壊した。
【明治時代以降(1868年頃~)の出来事】
★明治時代以降に真言宗(しんごんしゅう)智山派(ちさんは)に属するようになりました。海住山寺はかつて法相宗(ほっそしゅう)の本山・興福寺(こうふくじ)の末寺でした。
★1884年(明治17年)に現在の本堂が再建されました。
【良弁僧正:海住山寺開山】
良弁僧正は689年(持統天皇3年)に近江国(滋賀)または相模国(神奈川)で生まれたとも、百済系渡来人の子孫とも言われています。良弁僧正は母が野良仕事中にワシにさらわれ、東大寺二月堂(春日大社)前の杉の木に引っ掛かっているのを法相宗の僧・義淵に助けられ、僧として育てられたとも言われています。義淵から法相・唯識を学び、新羅の僧・審祥や慈訓から華厳を学びました。その後東山 (生駒市)に隠棲し、自ら刻んだ執金剛神像を安置して修行に励み、金鐘行者の異名を得ました。そのことが第45代・聖武天皇の耳にとまり、728年(神亀5年)に聖武天皇の皇太子・基王の菩提の為に若草山麓に設けられた金鐘山房の智行僧9人に選ばれました。金鐘山房の羂索院を賜り、後に東大寺の前身である金鐘寺になりました。742年(天平14年)に金鐘寺が大和国分寺になり、745年(天平17年)に律師になり、751年(天平勝宝4年)に東大寺大仏造立・東大寺建立の功によって東大寺の初代別当になりました。756年(天平勝宝8年)に中国からの渡来僧で、律宗の開祖・鑑真とともに大僧都になり、773年(宝亀4年)には僧尼を統括する僧正に任命されました。なお良弁僧正は774年(宝亀4年)1月10日に亡くなりました。
【海住山寺歴史-修学旅行・観光ガイド 備考】
*参考・・・海住山寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ