千本ゑんま堂歴史-修学旅行・観光ポイント

千本ゑんま堂

千本ゑんま堂歴史の簡単まとめ

千本ゑんま堂歴史を簡単にマトメてポイント解説します。千本ゑんま堂は平安時代前期に小野篁が創建したとも、1017年(寛仁元年)に定覚上人が道場・諸人化導引接仏道を創建し、光明山歓喜院引接寺と称したのが起源とも言われています。なお千本ゑんま堂歴史では時代別に歴史年表にまとめ、重要人物も紹介したりしています。

【前史(蓮台野)】

★千本ゑんま堂が建立されている場所は化野(あだしの)・鳥辺野(とりべの)とともに平安京三大葬送地に数えられた蓮台野(れんだいの)の入口にあたります。蓮台野に亡骸(なきがら)を葬る際に建立された石仏や卒塔婆(そとば)が無数にあったことから「千本」の地名が残されたと言われています。

【千本ゑんま堂創建(起源・由来)】

★千本ゑんま堂(引接寺(いんじょうじ))は平安時代前期に百人一首の歌人で、参議(さんぎ))・小野篁(おののたかむら)が閻魔(えんま)像を刻んで、この地に建立した祠(ほこら)に祀ったのが起源と言われています。小野篁は昼に宮中に仕え、夜は閻魔庁の第二の冥官として閻魔大王に仕えたとも言われています。また小野篁は藤原高藤(ふじわらのたかふじ)・藤原良相(ふじわらのよしみら)らを蘇生させたとも、また冥土で生身の地蔵菩薩(じぞうぼさつ)に出逢い、その教えによって蘇生したとも言われています。
★千本ゑんま堂は1017年(寛仁元年)に天台宗(てんだいしゅう)の僧で、「往生要集(おうじょうようしゅう)」を記した恵心僧都(えしんそうず)・源信(げんしん)の法弟・定覚上人(じょうかくしょうにん)が道場・諸人化導引接仏道を創建し、光明山歓喜院引接寺と称したのが起源とも言われています。

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【平安時代(794年頃~1185年頃)の出来事・事件】

★寛仁年間(1017~1020年)に定覚上人が布教の為に大念仏法会(だいねんぶつほうえ)を始め、ゑんま堂狂言の起源になったと言われています。ゑんま堂狂言は「ゑんまんどうの 狂言は だーれが先 はーじめた、でっかい坊主が はーじめた。」とわらべ唄で紹介され、今日まで唄い継がれるそうです。なおゑんま堂大念仏狂言は壬生大念仏狂言(壬生寺)・嵯峨大念仏狂言(清凉寺(嵯峨釈迦堂))とともに京の三大狂言に数えられています。

【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の出来事・事件】

★1273年(文永10年)に如輪上人(にょりんしょにん・明善律師)が千本ゑんま堂を中興したと言われています。
★文永年間(1264年~1275年)に如輪上人がゑんま堂狂言を再興し、室町時代に隆盛を極めたと言われています。ゑんま堂狂言は平安時代中期の寛仁年間に始まったが、その後一時中断したと言われています。

【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の出来事・事件】

★1379年(天授5年・永和5年)に梵鐘が藤井国安によって鋳造されました。
★1386年(元中3年・至徳3年)に紫式部(むらさきしきぶ)供養塔と言われる十重石塔が建立されました。

【室町時代(1336年頃~1573年頃)の出来事・事件】

★1408年(応永15年)に室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)は第100代・小松天皇(こまつてんのう)を金閣寺(きんかくじ)の前身である山荘・北山殿(きたやまてい)に招いた際、小松天皇が千本ゑんま堂に立ち寄って桜を見て感服しました。小松天皇は足利義満にも勧め、足利義満も千本ゑんま堂に行き、桜に心を奪われ、「桜の盛りを期して狂言を執り行うべし」と言って、毎年費用を与えたことからゑんま堂狂言が春に行われるようになったとも言われています。
★室町時代中期に応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))が起こり、閻魔大王像が焼失したと言われています。
★1488年(長享2年)に仏師・定勢が閻魔法王坐像を造仏しました。
★1565年(永禄8年)に宣教師(せんきょうし)ルイス・フロイスが記した「Historia de Iapan(日本史)」の中に千本ゑんま堂の様子が記されています。

【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の出来事・事件】

★1574年(天正2年)に織田信長(おだのぶなが)が上杉謙信(うえすぎけんしん)に贈ったと言われている国宝「洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)」の中で、ゑんま堂狂言の演目「閻魔庁」が演じらている様子が描かれています。また境内の十重石塔・普賢象桜(ふげんぞうざくら)も描かれています。
★1591年(天正19年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が旧・西院村の一部を朱印地として与えたとも言われています。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の出来事・事件】

★1617年(元和3年)に失われた寺領の代わりに旧・千本村を与えたとも言われています。
★江戸時代に花鎮(はなしずめ)の十日念仏が廃れたが、その後復活したとも言われています。

【明治時代以降(1868年頃~)の出来事・事件】

★明治時代から昭和初期にゑんま堂狂言の公演が2週間以上行われ、数百人収容の桟敷席が仮設され、席料を徴収するほどの盛況になり、境内に市が立ち並んだと言われています。
★1964年(昭和39年)にゑんま堂狂言が後継者不足によって途絶え、1974年(昭和49年)に不審火によって狂言堂・狂言衣装が焼失したが、翌1975年(昭和50年)に焼け残った狂言面をもとに千本ゑんま堂狂言保存会が結成され、仮の狂言堂も再建されました。以降復活したゑんま堂狂言の20数演目が毎年演じられています。

【小野篁:千本ゑんま堂開基】

小野篁は802年(延暦21年)に参議・小野岑守の長男として生れました。若年の頃に弓馬に熱中し、学問を顧みなかったことから第52代・嵯峨天皇を嘆かせたが、一念発起して学業に励み、822年(弘仁13)に文章生の試験に及第しました。その後巡察弾正・弾正少忠・大内記・蔵人・式部少丞・大宰少弐・東宮学士・弾正少弼などを歴任し、834年(承和元年)に遣唐副使に任じられたが、838年(承和5年)に遣唐大使・藤原常嗣と乗船を巡って争って乗船を拒否し、嵯峨上皇の怒りを買って隠岐国(島根県)に配流されました。840年(承和7年)に京都に召還され、その後刑部大輔・陸奥守・東宮学士・蔵人頭・左中弁などを歴任し、847年(承和14年)に参議に昇進しました。小野篁は「令義解」の編纂に携わり、「小倉百人一首」に「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人にはつげよ 海人の釣舟」が残されています。小野篁は反骨精神から野相公・野宰相・野狂とも称されました。なお小野篁は853年(仁寿2年)2月3日に亡くなりました。

【千本ゑんま堂歴史-修学旅行・観光ガイド 備考】
*参考・・・千本ゑんま堂(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ

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