金胎寺歴史-修学旅行・観光ポイント

金胎寺の時代別年表と重要人物

金胎寺歴史を簡単にマトメてポイント解説します。金胎寺は「興福寺官務牒疏」によると675年(天武天皇4年)に修験道の祖である役行者が鷲峰山を開山したのが起源とも言われています。奈良時代に第45代・聖武天皇が伽藍を建立して勅願寺としました。なお金胎寺歴史では時代別に歴史年表にまとめ、重要人物も紹介したりしています。

【前史(蓮台野)】

★金胎寺が建立されている標高約682メートルの鷲峰山(じゅぶせん・じゅうぶさん)は南山城地域(京都府南部)の最高峰であり、昔から霊山として信仰されていました。鷲峰山は奈良吉野の大峯山(おおみねさん)に対し、「北大峯」と称されました。大峯山は金胎寺開山で、修験道(しゅげんどう)の祖である役行者(えんのぎょうじゃ)・役小角(えんのおづの)が開山し、平安時代中期頃に理源大師(りげんだいし)・聖宝(しょうぼう)が中興し、修験道の根本道場・霊山になっています。鷲峰山は笠置寺(かさぎでら)が建立されている笠置山と同様に奇岩怪石が多く、古くから山岳修行の地だったと言われています。なお笠置寺は「笠置寺縁起(えんぎ)」によると682年(白鳳11年)に第40代・天武天皇(てんむてんのう)となる大海人皇子(おおあまのおうじ)が創建したとも言われています。

【金胎寺創建(起源・由来)】

★金胎寺は室町時代中期の「興福寺官務牒疏(こうふくじかんむちょうそ)・1441年(嘉吉元年)」によると675年(天武天皇4年)9月に役行者(役小角)が鷲峰山を開山したのが起源とも言われています。

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【奈良時代(710年頃~794年頃)の歴史・出来事】

★722年(養老6年)に越(こし)の大徳と称された泰澄大師(たいちょうだいし・越智泰澄法師)が再興したと言われています。泰澄大師は宝篋印塔が建立されている鷲峰山山頂から山麓まで托鉢を飛ばして食料を得たという伝承が残され、鷲峰山は「空鉢(くはち)の峰」とも言われています。
★奈良時代に第45代・聖武天皇(しょうむてんのう)が平城京(へいじょうきょう)の鬼門封じとして、伽藍を建立し、勅願寺(ちょくがんじ)としました。その後寺領が拡大し、山内に58もの坊舎を有して繁栄していたと言われています。往時には金胎寺は東塔・西塔に分かれ、鷲峰山寺などと総称されていました。現在は山頂付近が金胎寺になっています。

【平安時代(794年頃~1185年頃)の歴史・出来事】

★807年(大同2年)に興福寺(こうふくじ)の願安が再興したと言われています。

【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の歴史・出来事】

★1298年(永仁6年)に第92代・伏見天皇(ふしみてんのう)が行幸し、勅願によって現在の多宝塔が建立されました。伏鉢に永仁6年の銘が残されています。
★1300年(正安2年)に石造宝篋印塔が建立されたと言われています。
★1331年(元弘元年・元徳3年)に「太平記(たいへいき)」によると南朝初代で、第96代・後醍醐天皇(だいごてんのう)が鷲峰山を経て、笠置(かさぎ)に逃れた際に鎌倉幕府軍によって焼き討ちされました。

【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の歴史・出来事】

★1340年(暦応3年)にも出火によって多くの堂塔を焼失し、1361年(康安元年)に光弁上人が堂塔を再建しました。

【室町時代(1336年頃~1573年頃)の歴史・出来事】

★1490年(延徳2年)に多宝塔が修復されました。
★1518年(永正15年)に再び焼失し、その後の兵火により、往時のように堂塔が再建されず、1523年(大永3年)に堂塔跡に杉・檜2万本が植えられたと言われています。

【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の歴史・出来事】

★安土桃山時代に織田信長(おだのぶなが)によって寺領が没収されたが、江戸時代末期(幕末)まで南北19町半・東西30町の広さを誇っていました。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の歴史・出来事】

★1681年(元和元年)に多宝塔が修復されました。
★江戸時代に本堂(弥勒殿)・厄除け行者堂・福寿弁財天堂が建立されました。

【明治時代以降(1868年頃~)の歴史・出来事】

★明治維新後の神仏分離令・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)などにより、現在の境内は3町弱になりました。
★1973年(昭和48年)に大師堂が再建されました。

【役行者・役小角:金胎寺開山】

役行者は634年(舒明天皇6年)に父・大角と母・白専女の子として大和国葛城上郡茅原で生まれたとも言われました。その後元興寺で孔雀明王の呪法を学び、葛城山・熊野・大峰などで山岳修行を続け、吉野・金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、日本古来の山岳信仰・山修行・密教(仏教)などを融合させた修験道の基礎を築きました。しかし弟子・韓国連広足が役行者の能力を妬み、妖術を使って人を惑わしていると朝廷に讒訴し、699年(文武3年)に伊豆島に流罪になりました。701年(大宝元年)1月に大赦されて故郷に戻り、6月7日に大阪箕面・天上ヶ岳で亡くなったとも言われています。

【金胎寺歴史-修学旅行・観光ガイド 備考】
*参考・・・金胎寺(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)

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