三宝院歴史-醍醐寺14代座主・勝覚が灌頂院を開いたのが起源
三宝院歴史-修学旅行・観光ポイント
三宝院の歴史は1115年(永久3年)に源俊房の子で、醍醐寺14代座主・勝覚僧正が灌頂院を開いたのが起源です。寺号・三宝院は仏教の三宝に由来するとも、勝覚僧正が三人の師から「法」を伝えられたことに由来するとも言われています。なお歴史は時代別に年表にまとめ、重要人物も紹介しています。
【醍醐寺・理源大師】
★醍醐寺(だいごじ)は平安時代前期の874年(貞観16年)に真言宗(しんごんしゅう)の宗祖である弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)の孫弟子である理源大師(りげんだいし)・聖宝(しょうぼう)が横尾明神(よこおみょうじん)の示現により、上醍醐山上(笠取山(かさとりやま)山頂)で醍醐水の霊泉を得て小堂宇を建立し、自ら刻んだ准胝観音(じゅんていかんのん)・如意輪観音(にょいりんかんのん)を安置したのが起源です。理源大師・聖宝は深草の貞観寺(じょうがんじ)から東側を見ていると五色の雲が棚引き、その雲に誘われて山に登ると一人の老人が湧き水を飲んで、「甘露。甘露。ああ醍醐味なるかな」と言っていました。理源大師・聖宝が老人に寺院を建立したいと声を掛けると老人はこの地は諸仏・諸菩薩の雲集する地で、自分が地主の横尾大明神だからこの地を差し上げ、長く守護しようと言って、姿を消しました。
【三宝院の起源・始まり】
★三宝院は平安時代後期の1115年(永久3年)に左大臣・源俊房(みなもとのとしふさ)の子で、醍醐寺14代座主・勝覚僧正(しょうかそうじょう)が灌頂院(かんじょういん)を開いたのが起源と言われています。三宝院は醍醐寺の本坊的な存在で、歴代座主が居住する坊でした。なお三宝院には当初、五重塔の近くにあり、本堂・礼堂・寝殿・護摩堂などの堂宇があったとも言われています。
【平安時代(794年頃~1185年頃)の出来事・事件】
★平安時代後期に寺号・三宝院は仏教の三宝(仏・法・僧)に因んで改められたとも言われています。また勝覚僧正が三人の師(三流)である定賢(じょうけん)・義範(ぎはん)・範俊(はんじゅん)から「法」(本尊・聖教・重宝)を伝えられ、寺号を三宝院に改められたとも言われています。
★1143年(康治2年)に鳥羽上皇(第74代・鳥羽天皇(とばてんのう))の御願寺になりました。
★平安時代以降に醍醐寺では三宝院だけでなく、理性院・金剛王院・無量光院・報恩院も建立されて、醍醐五門跡と言われ、醍醐五門跡から醍醐寺座主が選ばれました。
【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の出来事・事件】
★鎌倉時代から南北朝時代に三宝院7世・成賢、三宝院11世・憲深、三宝院13世・定済、三宝院21世・賢俊などの高僧を輩出しました。
★鎌倉時代に三宝院が焼失し、三宝院11世・憲深の弟子で、三宝院13世・定済が再建しました。
【南北朝時代(1337年頃~1392年頃)の出来事・事件】
★南北朝時代に三宝院13世・定済の流れを汲む三宝院21世・賢俊が室町幕府初代将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)に庇護され、三宝院だけでなく、理性院・金剛王院・報恩院も支配下に置きました。
★1374年(応安7年・文中3年)に室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)が三宝院23世・光助を室町幕府の祈祷を行う武家護持僧の管領役に任じました。その後三宝院は室町幕府から特別な扱いを受け、三宝院25世・満済(まんさい・まんぜい)は「黒衣の宰相(こくいのさいしょう)」と言われました。満済は1396年(応永3年)に足利義満の猶子になり、醍醐寺座主に任じられ、その後准三后(じゅさんごう)になりました。
★南北朝時代に三宝院の院主が醍醐寺座主を兼ねる慣例が成立しました。
【室町時代(1336年頃~1573年頃)の出来事・事件】
★室町時代中期に応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))によって焼失し、三宝院は廃寺同然になったと言われています。醍醐寺では応仁の乱によって金堂などが焼失し、下醍醐は荒廃して五重塔だけが残されたと言われています。
【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の出来事・事件】
★桃山時代に金剛輪院の院主であった義演(ぎえん)が関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)から信頼され、三宝院32世を名乗り、金剛輪院を三宝院と改称して三宝院を再興しました。豊臣秀吉は1598年(慶長3年)に醍醐の花見を催し、それに伴って三宝院・醍醐寺が整備されました。三宝院の庭園は豊臣秀吉が醍醐の花見に際し、自ら基本設計を行ったと言われています。
★1598年(慶長3年)8月に豊臣秀吉が亡くなり、その後豊臣秀吉の正室・北政所(きたのまんどころ)や豊臣秀吉の子・豊臣秀頼(とよとみひでより)が整備を受け継ぎました。
【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の出来事・事件】
★江戸時代初期に天台宗(てんだいしゅう)系の修験道(しゅげんどう)である本山派(ほんざんは)本山の聖護院(しょうごいん)とともに江戸幕府の支援を受け、1613年(慶長18年)に修験道法度(はっと)が制定されました。三宝院は真言宗(しんごんしゅう)系の修験道である当山派(とうざんは)を統括する本山でした。
★江戸時代初期に庭師・賢庭や三宝院32世・義演が庭園を改修しました。
【明治時代以降(1868年頃~)の出来事・事件】
★1994年(平成6年)に三宝院は醍醐寺とともにユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」に登録されました。
【三宝院の開山とされる勝覚僧正】
勝覚僧正は1057年(天喜5年)に村上源氏である左大臣・源俊房と藤原朝元の娘の子として生れました。その後醍醐寺座主・定賢から灌頂を受け、義範・範俊に師事して真言密教の奥義を伝授されたと言われています。1086年(応徳3年)に定賢から醍醐寺座主職を譲られ、1086年(応徳3年)に義範、1095年(嘉保2年)に定賢、1105年(長治2年)に範俊から伝法灌頂を受けたました。また1092年(寛治6年)に広隆寺、1104年(長徳元年)に東大寺に移りました。1107年(嘉承2年)に権少僧都に任じられ、1120年(保安元年)に少僧都に任じられました。また東寺長者・東寺別当・醍醐寺座主・東大寺別当なども歴任しました。醍醐寺座主は桜会(清滝会)を始め、白河上皇(第72代・白河天皇)の出家の際に剃り手を勤めました。なお勝覚僧正は1128年(大治3年)に醍醐寺に隠遁し、翌1129年(大治4年)に亡くなりました。
【三宝院 備考】
*参考・・・三宝院(歴史・見どころ・・・)ホームページ