下御霊神社歴史-修学旅行・観光ポイント

下御霊神社

下御霊神社の時代別年表と重要人物

下御霊神社歴史を簡単にマトメてポイント解説します。下御霊神社は863年(貞観5年)5月20日に第56代・清和天皇の勅命により、宮中の庭・禁苑だった神泉苑で、悪疫退散の御霊会が行われたのが起源と言われています。なお下御霊神社歴史では時代別に歴史年表にまとめ、重要人物も紹介したりしています。

【前史(神泉苑)】

★794年(延暦13年)の第50代・桓武天皇(かんむてんのう)による平安京遷都(へいあんきょうせんと)の際、大内裏(だいだいり)南側に接する場所に禁苑(きんえん・宮中の庭)・神泉苑(しんせんえん)が造営されました。神泉苑は南北四町・東西二町の八町(南北約500メートル・東西約240メートル)で、大池・泉・小川・小山・森林などを取り込んで整備され、乾臨閣(けんりんかく)・右閣(うかく)・左閣(さかく)・西釣台・東釣台・滝殿・後殿などの宮殿が建てられました。

【下御霊神社創建(起源・由来)】

★下御霊神社は863年(貞観5年)5月20日に第56代・清和天皇(せいわてんのう)の勅命により、宮中の庭・禁苑だった神泉苑で、悪疫退散の御霊会(ごりょうえ)が行われたのが起源と言われています。御霊会は「日本三代実録(にほんさんだいじつろく)・平安時代編纂」の貞観五年(863)五月二十日条に「廿日壬午。於神泉苑修御霊会。勅遣左近衛中将従四位下藤原朝臣基経。・・・崇道天皇。伊予親王。藤原夫人。及観察使。橘逸勢。文室宮田麻呂等是也。・・・」と記され、崇道天皇(すどうてんのう・早良親王(さわらしんのう))・伊予親王(いよしんのう・伊豫親王)・藤原夫人(藤原吉子(ふじわらのよしこ))・観察使(藤原仲成(ふじわらのなかなり))・橘大夫(橘逸勢(たちばなのはやなり))・文大夫(文室宮田麻呂(ふんやのみやたまろ))の六柱の御霊(ごりょう・六所御霊(ろくしよごりよう))が祀られ、太政大臣・藤原基経(ふじわらのもとつね)らが監修して皇族・公家などが列席し、設けられた祭壇に花果が供えられ、慧達律師が「金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう・金光明経(こんこうみょうきょう))」の一部と「般若心経(はんにゃしんぎょう)」六巻を読経し、雅楽寮の伶人によって楽が演奏され、天皇に近侍する児童や良家の稚児によって舞が舞われ、大唐・高麗の雑技や散楽が競わせれました。神泉苑の四門が開かれ、庶民が自由に出入りできました。

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【平安時代(794年頃~1185年頃)の出来事】

★平安時代初期に下御霊神社は下出雲路に創建されたと言われています。愛宕郡出雲郷の下出雲寺(廃絶)の境内に祀られたと伝えられています。現在の寺町今出川の北辺りと言われています。下御霊神社は下出雲寺御霊堂、上御霊神社は上出雲寺御霊堂と称しました。ちなみに上御霊神社は794年(延暦13年)5月に第50代・桓武天皇による平安京遷都の際、桓武天皇が崇道天皇(早良親王)を平安京の守り神として祀ったのが起源と言われています。なお下御霊神社は御所の産土神(うぶすながみ)として、篤く信仰されました。祭事などの際には代参・祈祷・湯立や神楽の奉納などが行われ、神事・遷座・修理などの際には白銀等の寄附がありました。

【鎌倉時代(1185年頃~1333年頃)の出来事】

★鎌倉時代に現在の新町通出水辺りに移ったと言われています。下御霊神社と上御霊神社の祭礼は剣鉾(けんほこ)など風流を極め、天皇・上皇などが桟敷を設けて見物しました。
★1324年(元亨4年)に神階が最高位である正一位(しょういちい)に昇叙しました。

【室町時代(1336年頃~1573年頃)の出来事】

★1427年(応永34年)に室町幕府4代将軍・足利義持(あしかがよしもち)が社殿を寄進したとも言われています。下御霊神社はこの頃に新町出水西に移されたとも言われています。
★室町時代中期に応仁の乱(1467年(応仁元年)から1477年(文明9年))が起こり、下御霊神社は御神体とともに北山花園村に移り、祭礼も中断しました。その後新町出水周辺に戻ったと言われています。

【安土桃山時代(1573年頃~1603年頃)の出来事】

★1590年(天正18年)に関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命により、西園寺実氏(さいおんじさねうじ)の別荘・常盤井殿(ときわいどの)があった現在の場所に移されました。下御霊神社は寺町通の寺院とともに移されました。

【江戸時代(1603年頃~1868年頃)の出来事】

★1708年(宝暦5年)に宝暦の大火(ほうれきのたいか)により、社殿が全焼しました。なお宝暦の大火では御所・公家屋敷・民家など1万3千戸以上が焼失したと言われています。
★1709年(宝暦6年)に仮皇居の内侍所(ないしどころ)旧殿を賜り、本殿が再建されました。また第113代・東山天皇(ひがしやまてんのう)から大宮神輿が寄進されました。この頃から祭礼の神幸祭(しんこうさい)・還幸祭(かんこうさい)では神輿を仙洞御所(せんとうごしょ)の前に泰安し、神職が奉幣(ほうへい)することが慣例になりました。
★1723年(享保8年)4月6日・1727年(享保12年)2月11日に霊元上皇(第112代・霊元天皇(れいげんてんのう)が修学院離宮(しゅうがくいんりきゅう)に行幸した際、輿を下御霊神社の社頭に留めて祈念しました。
★1723年(享保8年)に霊元上皇(霊元天皇)が崩御し、その遺言によって相殿に天中柱皇神として配祀しました。、
★1788年(天明8年)に天明の大火(てんめいのたいか)により、土蔵以外の社殿が焼失し、御神体とともに下鴨神社(しもがもじんじゃ)に移りました。ただ土蔵の中に保管されていた神輿は焼失を免れました。なお天明の大火では御所・二条城など3万7千戸が焼失したと言われています。
★1791年(寛政3年)に仮皇居の内侍所旧殿を賜り、現在の本殿が再建されました。
★文政年間(1818年~1831年)に春日社が建立されました。
★天保年間(1830年~1844年)に神輿の飾りを大修理し、剣鉾も新調・修理しました。

【明治時代以降(1868年頃~)の出来事】

★明治時代に神社諸制度が改変され、公祭である祭礼が8月18日、私祭である神幸祭・還幸祭が5月1日から18日に分けられました。
★明治時代に府社に列せられました。
★1879年(明治12年)に第122代・明治天皇が京都を訪れた際に勅使・堀川侍従が参向して幣帛料を奉り、その後永世保存の為に金7百円が下賜されました。
★1923年(大正12年)に現在の鳳輦が新調されました。神坂雪佳などの名工が技術を駆使しました。
★2019年(令和元年)5月に神幸祭で大宮神輿が仙洞御所に巡行しました。

【下御霊神社歴史-修学旅行・観光ガイド 備考】
*参考・・・下御霊神社(アクセス・マップ・歴史・見どころ・・・)ホームページ

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